7世紀の東アジア――日本、新羅、唐――に女帝が相次いで出現した理由・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1027)】
長野・上田の上田城近くの北国街道・柳町には、往時の風情が漂っています。生島足島神社は真田氏ゆかりの神社です。諏訪のSUWAガラスの里で、素晴らしい作品に出会うことができました。今日はヴァレンタインズ・デイですね。
閑話休題、『古代東アジアの女帝』(入江曜子著、岩波新書)には、いろいろ教えられました。
7世紀の日本では、推古を初め、皇極・斉明、持統など女帝が続々と登場し、同じ時代、朝鮮半島の新羅には善徳、真徳という女帝が、中国の唐では武則天という女帝が現れます。なぜ同時期の東アジアに多くの女帝が出現したのか、この謎に迫ったのが本書です。
いずれの女帝も興味深いのですが、一番驚いたのは、中大兄が叔父の孝徳大王の大后である間人と出奔したというスキャンダルです。「何より世人が驚愕したのは、大后である間人が(同父同母の兄である)中大兄に従って孝徳を捨てた事実である」。
「中大兄の即位を阻んだのは、当然、大王としの孝徳の決断であるが、前大王・(中大兄と間人の母)皇極の強い意志でもある。さらに中大兄の過去の(ライヴァルに対する)粛清歴を記憶する諸王の躊躇もあろう。しかし、やはり間人との秘事が表面化したことによる倫理上の非難のあらわれであったと思う」。
「大化改新前夜の中大兄には、それが何であれ大王としての夢はあったはずだ。しかし、しっかり握っていたはずの夢が、海外派兵の挫折と、長すぎた『太子という曖昧な地位』のために蝕まれて、ようやく開いた掌には抜け殻しか残っていなかったと知った失望と焦り。さらにそれを共有してくれるはずの鎌足が少しずつ王族の血をひく有望な男子をもつ大海人へ軸足を移しつつあることへの疑念。その心の隙間を埋めるかのように、新大王(天智=中大兄)は宴を好んだ。まさに浴びるほど酒をたしなんだ」。著者は、中大兄に辛辣です。
もう一つ驚いたのは、従来、兄とされてきた中大兄(天智)と、弟とされてきた大海人(天武)の関係が明らかにされていることです。「(壬申の乱に勝利した)大海人はただ一人飛鳥寺の聖なる槻の下に築いた壇に登り、自ら即位を宣言した。それは王位簒奪という倫理的な非難を『易姓革命』という耳慣れない言葉で封じ込めた、これまでのヤマト王朝とは異質の新しい王朝のはじまりであった。そのために新帝(天武)は、大胆にも近江朝では曖昧であった自身の出自――母は斉明女帝であるが、父は斉明の初婚の相手『高向王』であり、舒明との再婚後に生まれた中大兄とは異父兄弟にあたること、つまり家系としては前王朝とは異なる家系に属することを明らかにした。重要な点は、従来の王統の慣習からいえば、新帝は、卑母以上の悪条件となる卑父の出自である。しかし、『天』が前王朝に代って、易姓――つまり家系の異なる大海人に国の統治を命じた以上、これまでの王統の価値観には束縛されない、という易姓の原理を強調したことである。この中国の伝統的な王朝交代の思想を打ち出したことで、大海人は王位簒奪の悪名からも、卑父という出自の負い目からも、見事にのがれたことになる。前王朝との相違を明らかにするうえで、大王・大后の文字を中国の伝統にならってオオキミ・オオキサキの音はそのままに皇帝・皇后と改めたことも推察される」。ここの「皇帝」は「天皇」とすべきではないかと、私は考えています。また、これで、大海人が中大兄の弟でありながら、中大兄より年上であった謎が解けたわけです。
「この革命王朝が受け入れられた功の半ばは鸕野讃良(持統)にある。壬申の乱の動機そのものが、彼女の(わが子・草壁を是が非でも大王にしたいという)悲願からはじまり、近江離脱にいたるレールを敷いたとさえいえる。なにより重要なのは大海人の大王としての弱点を鸕野讃良の斉明の孫、天智の女(むすめ)という出自が補っていることである」。
歴史好きにとって、知的好奇心を刺激される一冊です。