独り暮らしの74歳の桃子さんと、心の中の柔毛突起との言い争いの結果は・・・【情熱の本箱(267)】
『おらおらでひとりいぐも』(若竹千佐子著、河出書房新社)に、主人公と同年齢で出会えるとは、私は何と強運の持ち主なのだろう。
「改めて桃子さんは考える。今頃になっていったい何故東北弁なのだろう。満二十四のときに故郷を離れてかれこれ五十年、日常会話も内なる思考の言葉も標準語で通してきたつもりだ。なのに今、東北弁丸出しの言葉が心の中に氾濫している。というか、いつの間にか東北弁でものを考えている。晩げなのおかずは何にすべから、おらどはいったい何者だべ、まで卑近も抽象も、たまげだごとにこの頃は全部東北弁でなのだ。というか、有り体にいえば、おらの心の内側で誰かがおらに話しかけてくる。東北弁で。それも一人や二人ではね、大勢の人がいる。おらの思考は、今やその大勢の人がたの会話で成り立っている。・・・ついおめだば誰だ、と聞いてしまう。おらの心の内側にどやって住んでんだが。あ、そだ。小腸の柔毛突起のよでねべが。んだ、おらの心のうちは密生した無数の柔毛突起で覆われてんだ。ふだんはふわりふわりとあっちゃにこっちゃに揺らいでいて、おらに何か言うときだけそこだけ肥大してもの言うイメージ」。
「自分に寄り添ってくれるのは所詮忍び寄る老いだけ、ああ、おらはひとりでまっちゃ、ひとりはさびしいでまっちゃ、繰り言が心に溢れて止まらなくなった。とたん、おらおらおら、ちょっと目を離すとすぐこれだ。おめだば、すぐ思考停止して手あかのついた言葉に自分ば寄せる。何が忍び寄る老い、なにがひとりはさびしい。それはおめの本心が。それはおめが考えたごどだが。突如怒れる柔毛突起一騎現れ、盛んにまくしたてる。はぁ、なにそれ、いちいちうるさい。これに反応する桃子さん本体、並びに守旧派の柔毛突起。当たり前と思っているごどを疑え、常識に引きずられるな、楽なほうに逃げんな、何のための東北弁だ。われの心に直結するために出張ってきたのだぞ。おららあふあふ。ついにたまらず桃子さん、思考を強引に遮断する」。
「普段の桃子さんはせいぜい隣近所と挨拶を交わす程度、たまに郵便配達や新聞の集金の人と二言三言話すくらいである。それでも取り立てて寂しいとは感じない。まぁこんなものだろうと思っている。人は誰にだってその人生をかけた発見があるのではなかろうか。人生の終わりにかけて、ひょっとしたらこれを見つけ出すためにわが人生は営々と営まれたのではあるまいかと考えられるような、どんなに陳腐でありきたりであろうと、実地で手間暇かけて獲得したところのかけがえのないひとふし、なにわぶしのようなうなりのひとふしがあって、そこがまたその人を彩るというような。桃子さんの場合は『人はどんな人生であれ、孤独である』というひとふしに尽きる。まぁ大したことがあったわけではない人生ではあるが、そうはいってもこれまで生きてきた中でしみじみと納得することもあったわけで、であるから、孤独などなんということもないと自分に言い聞かせもし、もう十分に飼いならし、自在に操れると自負してもいるのだった。さびしさぁ、なにさ、そたなもの、などと高をくくっていたのである。ところが、いけない。飼いならし自在に操れるはずの孤独が暴れる」。
「老いると他人様を意識するしないにかかわらず、やっと素の自分が溢れ出るようになるらしい」。
「透明な意識の中で桃子さんはある予兆にとらわれていた。自分がこれから思いもかけない気づきを得るのだなどという。何かは分からないけれどそれはすぐそばまで来ている」。
「周造(しゅうぞう)。桃子さんはこの日初めて亭主の名を呼んだ。おら、今こんなとごろにいるよ。気弱になった桃子さんは、自分の位置を確認せずにおれない。桃子さんを定位するのは、今はどこにいるのか分からないが、必ずどこかにいるはずの亡夫を定点と見定めた自分の在り所だけ。自分を取り巻く現実はあまりにも殺風景で希薄で、自分はこの世界でほんとに生きているのだろうか、比べて遠く隔てられた過去は色鮮やかに蘇る。桃子さんとて過去は恣意的なもの、美しい装飾が施されたものとうすうすは気づいている。それでもそこにしか自分の居場所がないように思われる。周造。もう一度亭主の名を呼んだ」。
「桃子さんは周造の孤独を自分の孤独に重ね合わせた。震える思いで周造の笑顔を絶やしてはならない、周造を幸せにしたいと思った。若く性急であった桃子さんはひたすらに解を求め、周造を喜ばせたいと思った。そのために周造の理想の女になる、そう決めた。周造が望んだのは控えめで後ろからついてくるような女ではなかった。むしろ、元気でわがままな楽しい女だった。桃子さんは全力で応じた。周造を魅了し続けること、それによって周造の生きる手ごたえになること。ごく自然に周造のために生きる、が目的化した。・・・桃子さんはまだ弱くて一人で立っているのには拙くて、外に偶像を求めたのである。寄りかかって支える。強いから支えるのではない、弱いから支える。支えることで自分の輪郭を確かめようとした。甲斐を自分に見出すにはまだ時間を要したのだ。・・・あれから十五年、あの日を思えば今でも心が泡立ち平静ではいられない。周造はたった一日寝込むでもなく心筋梗塞であっけなくこの世を去った」。
「愛に自分を売り渡さねばよがった・・・誰それのために生ぎるという慙愧怨念の生き方をしてしまった あいやぁ、そこまで言うが、そこまで言っていいんだが おめはそれほどのもんだが 真ん中と左、互いに見交わす顔と顔、しだいに不穏な空気に包まれて一触即発。そこに柔毛突起数騎現れた」。
「でいじなのは愛よりも自由だ、自立だ。いいかげん愛にひざまずくのは止めねばわがね んだ。愛を美化したらわがねのだ。すぐにからめとられる 一に自由。三、四がなくて五に愛だ。それぐらいのもんだ んで、二は 改めて言うまでもねべ」。
「猛々しいものを猛々しいままで認めてやれるなら、老いるという境地もそんなに悪くない。そう思って桃子さんは歩いている。亭主墓参のため、行く道すがら出会える自分が実は楽しい」。
「問いがあればさらに深められる。自分に対する好奇心、それが待つだけの日々の無聊を慰めてくれると、桃子さんは祈りにも似た気持ちで信じているのである」。
「もう今までの自分では信用できない。おらの思っても見ながった世界がある。そごさ、行ってみって。おら、いぐも。おらおらで、ひとりいぐも」。
「あふれる光で障子の桟の影が畳に長く伸びて、おらのほうにまで広がっている。光の洪水の中で突如として、自由だ、自由だ。なんでも思い通りにやればいいんだ。内側から押されるような高揚した気分になった。状況が変わった訳でもねし、変わりようもねのに、あの真っ暗な絶望的な気持ちがぱっと明るく開けた。信じられねがった。・・・愛だの恋だのおらには借り物の言葉だ。そんな言葉で言いたくない。周造は惚れだ男だった。惚れぬいだ男だった。それでも周造の死に一点の喜びがあった。おらは独りで生きでみたがったのす。思い通りに我れの力で生きでみたがった。それがおらだ。おらどいう人間だった。なんと業の深いおらだったか。それでもおらは自分を責めね。責めではなんね。周造とおらは繋がっている。今でも繋がっている。周造はおらを独り生がせるために死んだ。はがらいなんだ。周造のはがらい、それがら、その向ごうに透かして見える大っきなもののはがらい。それが周造の死を受け入れるためにおらが見つけた、意味だのす」。
これは、青春小説、恋愛小説、成長物語、玄冬小説、心理小説、人生論、ユーモア小説、方言物など多彩な顔を持っており、いずれの顔を注視しながら読んでも、確かな読み応えがあるという不思議な作品である。こういう柔毛突起の如き何とも変幻自在な作家が忽然と出現した吉事に、そして、私が棺桶に入る前に手にできた幸運に感謝!