榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

『赤目四十八瀧心中未遂』のこと、車谷長吉のこと、高橋順子のこと・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1475)】

【amazon 『人生の四苦八苦』 カスタマーレビュー 2019年5月4日】 情熱的読書人間のないしょ話(1475)

タンポポより背が高いブタナが、タンポポに似た黄色い花を咲かせています。あちこちで、さまざまな色合いのツツジが咲き競っています。フジも頑張っています。因みに、本日の歩数は10,756でした。

閑話休題、これまで生きてきて、一番強烈な印象を受けた小説は、車谷長吉の『赤目四十八瀧心中未遂』(車谷長吉著、文春文庫)です。エッセイ集『人生の四苦八苦』(車谷長吉著、新書館)には、この作品に関する記述が散見されます。

「私は五十二歳の冬、『赤目四十八瀧心中未遂』という長編小説を書き上げた瞬間、気が狂い、身心ともに障碍者になってしまった。この病気は八割程度、快くなったが、完全治癒した患者は過去に例がないのだそうである。精神科医がそう断言している」。

「平成十年、病を患いながら書き上げた『赤目四十八瀧心中未遂』で、長年の夢だった直木賞を受賞しました。死にものぐるいで、六年を費やして書き上げた本で受賞できて男子の本懐でした。しかし、これからのことが恐ろしいと思っていました。小説を書く場合、登場人物をつつき回すわけです。つまり、悪意に満ちた自分になるということです。主人公たちが困れば困るほど、お話としては具合が良いわけです。でも書く立場の側としては、登場人物を追い込んでいくのは非常に苦しいです。人を追い込んでいくことだから、それは頭に置いていても、より苦しいところへ追い込んで行くには、苦しみがありました。文学で一番苦しいのは、登場人物をより苦しいところへ追いつめていくことです。追いつめることができるかどうかに、その作家の才能のすべてがかかっていると思います。だから、いわゆるお人好しの人は小説が書けないのではないでしょうか。より苦しいところへ登場人物を追いつめて行き、その上で救済を与えなければならないのです」。車谷の文学観が窺われます。

「三十代のときからあたためていた、初の長編小説『赤目四十八瀧心中未遂』は、尼ヶ崎を舞台に逃亡する男と女の切ない恋を描いたもので、この作品により念願の直木賞を受賞することができました。こうして、五十三歳にして小説家としての確固たる地位と新たな人生を手に入れました。本物を見分ける目利きとして知られる文筆家、白洲正子さんは、生前車谷長吉を見出したことを誇りに思っていてくださったそうです。そんな白洲さんからいただいたファンレターです。『この前の作品は、また、息もつかずに読みました。なにしろ、生きていました』」。

「今回は、人間の想像力による世界を九十パーセントほど入れ込んで『赤目四十八瀧心中未遂』を書きました。ですので、以前の作品に比べて、作品の内容が自然に少し変わってきたとは思っています。しかし、わたしが意図して変えたというより、物語性を少し加味しようと考えたことには意志が働いていますが、その結果作風が変わってきたのだと思います」。

「『赤目四十八瀧心中未遂』を書いたときは、はじめは三十枚ほどの短篇小説を書くつもりで書きはじめたのですが、いつしか四百七十枚までふくれあがってしまったのです。自分としても結果は意外なことになったなと思いましたね。その上に賞をいただいたのも、意外な感じがしました。また、賞をいただいたときから苦しみがはじまりましたが、直木賞は何が何でも取るという気持ちがありました」。

妻の高橋順子についても、あちこちで触れています。

「私は四十八歳の秋、四十九歳の女と結婚した。ともに初婚で、駒込千駄木町の貸家を借りた。嫁はんはまず一番に自分の部屋を決め、そこに陣取った。出入り禁止である。凄い女だなァ、と思うた。併し私には自分の部屋などなかった。二階の陽の差さない部屋が寝室だったが、その部屋の隅に文机をおいて、そこで文章を書いていた。数年後に直木賞をいただいて、大金が天から降って来たので、嫁はんは大喜びをし、勝手に不動産屋へ行き、勝手に古家を買うた。嫁の女友達にそそのかされた通りにしたのである。でも、こんどは私にも二階の三畳間があてがわれた。嫁はんは一階の十二畳間にいる。二人とも、掃除・片付けが大嫌いなので、家の中は全体がごみだらけである。それで平気なのである。が、嫁はんの田舎の両親も、私の母親も、私たちが東京都心に家を買えたので喜び、遠いところから泊まりに来た。やれやれ、女は凄いなァ」。

「嫁はんである高橋順子の支えには感謝しなければなりません。とくに結婚してからの存在は、とても大きいものです」。

「生涯をかけて書きたいと思っていた叔父の死は、人間の業苦をえぐり出すことでした。書けば必ず引き裂かれるので、もう小説を書きたくないという気持ちにまでなっていました。そのころに出会ったのが、詩人の高橋順子です。当時、私小説を書くわたしの痛みを唯一理解してくれた女性でした。平成五年、わたしが四十八歳で嫁はんが四十九歳の時に結婚しました。そして、東京の百貨店に勤めながら小説を書く道に進みます。『鹽壺の匙』を書き終えたとき、京都へ行って出家しようと考えていたのですが、思いとどまらせたのが今の嫁はんです。『わたしがあなたのお嫁さんになってあげるから、書き続けなさい』と、職業作家になれということを言ってくれました」。

「<秋風や 女が鬼に 戻るとき(守屋昭俊)>。これは、わたしの嫁はんのことを見出しているなと。すぐ怒るので」。車谷には、独特のユーモアがありますね。

「小説家を志して苦行僧のような生活をしまして、理想は無一物ですが、四十八歳で結婚してから生活は変わりました。嫁はんがクーラーもTVも電話も電子レンジも電気洗濯機も、それまで持っていなかったものを持ってきてしまったのです。一番困ったのは電話を持ってきてしまったことですね。しかし、わたしにとってはミューズです。嫁はんは自分で自分のことを『ミミズよ』と言いますが」。

当然のことながら、文学についても語っています。

「団子坂の中程には、森鷗外の旧宅跡に鷗外記念本郷図書館が建ち、鷗外の遺品等を展示しています。鷗外の旧宅は、東京湾が遥かに見えたので、『観潮楼』と命名されました。今でも、玄関の敷石と門の跡が残っています。わたしは、鷗外さんが一番好きで尊敬しています。鷗外さんの文章を読みながら、練り上げてきたというか。ですから、鷗外さんの住んでいたところに来るというのは、自分の聖地に来るようなものです。そうして気持ちを新たにしています。・・・原稿を書くのはなかなか辛いことです。いつも緊張感の中に暮らしているので、その息抜きがわたしにとっての散歩です。散歩に出るときは、いつも下田履きなのですが、靴を履いているときより寛げるというか、安心できるのです。時が経つのも忘れて、文人ゆかりの里を、ただ歩く。これぞ贅沢というものです」。

死については、このように書かれています。

「この世に生きている人は、誰も『死』を経験したことがありません。人間は他人、あるいは親兄弟が死ぬのを見て、『ああ死ぬんだな』ということを理解するわけです。理解するということは、認識するということです。そうして、『死ぬのは厭だな。苦しそうだな。怖いな』ということを思うわけです。しかし、実際に死の世界を経験した人は一人もいません。そして、実に人間の最大の不幸は、今生きていても、いずれ自分は死ぬということを知っていること」。

『赤目四十八瀧心中未遂』のこと、車谷のことを、もっともっと知りたい気持ちが募ります。