女子中学生が「死」の深層に迫った学園小説・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1477)】
我が家の真ん前で、ヒヨドリ、ムクドリが高らかに囀っています。日に何度も、アゲハチョウの同じ個体がやって来ます。アリたちが獲物に群がっています。ヒメダカの稚魚たちが元気に泳ぎ回っています。先日、女房がもらってきたハナモモの苗木が根づいたようです。庭の片隅でボンザマーガレット、ジャーマンアイリスが咲き始めました。散策中、さまざまな色合いのジャーマンアイリスを見かけました。因みに、本日の歩数は10,253でした。
閑話休題、『14歳、明日の時間割』(鈴木るりか著、小学館)は、中学3年生の手になる連作学園小説です。
1時間目の「国語」、2時間目の「家庭科」、3時間目の「数学」、4時間目の「道徳」、その次の「昼休み」までは、読書好きな女子中学生による才気溢れる学園小説だなと思いながら読み進めてきたが、5、6時間目の「体育」では、ガーンと頭を強打されてしまいました。
「体育」は、「世の中にたえて体育のなかりせばわれの心はのどけからまし 詠み人 星野茜。そんな歌を詠んでしまうほどに、私は体育が苦手だ。いやもう憎んでいるといっていい。ああ、本当に、この世に、体育なんてものがなければ、私の心はどんなに穏やかでいられることか。・・・そもそも私の場合、運動神経がいいとか悪いとかの問題ではなく、端(はな)っからそういうものがないのだ」と始まります。体育が死ぬほど嫌いな茜は、中学2年生です。
「どこの学校でも、運動神経が悪い、鈍いという人は、大抵からかいや、いじめの対象になったりするが、私の場合は、運動神経が悪すぎて、というか、なさすぎて『いじり』や『笑い』の範疇ではなくなっており、もはや禁忌の領域、アンタッチャブルな域にまで達していたので、スルーされているのだった。しかしこのまま、このポジションに甘んじていいのか」。
茜の祖父は末期の腎不全で、最早、人工透析に耐えるだけの体力がありません。本人の強い希望で、自宅療養中なのだが、この祖父と茜の会話が奥深いのです。「『年を取ると体のあちこちが傷んできて、体力がなくなり、病気も出てくる。体が衰えて、去年できたことがだんだんできなくなる。頭の回転も遅くなる。そうやって少しずつ諦めをつけていく。頭も体も若い時と変わらなかったら、人生が楽しくて死ぬのが嫌になる、怖くなるだろう。でも少しずつ無理がきかなくなって、思うようにいかないことが増え、諦めがつくようになる。そうやって最期を受け入れる態勢、心構えを、知らず知らずのうちに準備している、させられているんだな』。祖父は、もうその準備ができているのだろうか」。
「『そんなこと言わないでよ。元気になってよ』。『そういうわけにもいかない。おじいちゃんは、もうすぐ死ぬよ』。『嫌だよ。そんなこと言わないでよ』。『嫌だといってもこればっかりは仕方がない。人間、みんないつかは死ぬ。自分だけずっと生きたいなんて言っても、それは無理な話だ』。祖父は昔からこういうことをはっきり言う人だった」。
「祖父は唇の渇きを潤すように少しもぐもぐさせた。『どんな姿になっても、命の砂時計の最後のひと粒が落ちきる瞬間までは生きているんだよ。おじいちゃんもこんな体になって、あちこちもうぼろぼろだけど、半分死んでいるようなものかもしれないけれど、まだ生きているよ。いろいろなことにだんだん諦めがついて覚悟はできているけど、生きることを捨てたりはしないよ、最後まで』。私も静かに頷く。『だからずっと長生きして』。祖父が、ふっと息を抜くように微笑む。『そういうわけにもいかないんだよ。年寄りが死ぬのは当たり前だ。自然の摂理ってやつだ。でも生きているのは、当たり前のことじゃないぞ。忘れがちだけど、今日、今生きていることは当たり前のことじゃないんだ、誰でも。(27歳で戦死した)親父はじいさんになれなかった。おじいちゃんは、生きて年を重ねてじいさんになれた。その結果、年齢で死んでいく。これは幸せなことだ』」。
女子中学生が「死」に真剣に向き合い、「死」があるから「生」が意味を持つことを贅肉のない筆致で描いていることに、強い衝撃を受けたのです。本当に驚きました。
この作者の将来が楽しみです。