『赤毛のアン』のアン、モンゴメリ、村岡花子、そして読者を繋ぐものとは・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1699)】
東京・文京の小石川後楽園の紅葉、黄葉を楽しみました。因みに、本日の歩数は12,645でした。
閑話休題、エッセイ集『やがて満ちてくる光の』(梨木香歩著、新潮社)に収められている「長襦袢は思想する」は、私の知らない世界を教えてくれました。
「つつましい常着や、すました訪問着の一枚下に、こんなに豊かで自由闊達な世界が広がっていたとは、それはよほどの近親者でないかぎり、決して人目には触れない,という約束ごとの上で展開していく世界である。袖口などから、色調ぐらいは垣間見えることがあっても、その全貌は決して表だって明らかにされない。その安心感の上に展がっていく、『個性』というもの」。
「友人が、『長襦袢は、その昔遊女にとって、仕事着だったのよ』と教えてくれた。確かに長襦袢は上着ではないが下着でもない。建前ではないが、全くの本音でもない。その中層を、生業の場として選びとり、そこにはっしと立って生計を得る遊女たち。私に欠けているのは、おそらくこの徹底したプロ意識なのだろう」。
「忘れられない言葉――あの子はああいう子なんです」という一文からは、子供にとって大切なものを教えられました。
「小学生の頃は憑かれたように毎日本ばかり読んでいた。・・・テストのある日は嬉しかった。さっさとすませてあとは(先生の目を盗んで)思う存分読んでいられるから。その日のテストもいつものように『さっさとすませて』本の続きに没頭していた。すると教室の後ろのドアが開き、数人のいかにも視察に来たといった風情の恰幅のよろしい方々が担任に案内されてきた。そのうちの一人が何か耳打ちしたらしい。担任の晴れやかな声が聞こえた。『ああ、あの子はああいう子なんです』。私は異様に敏感な子だったので、この一言で、テスト中に本を読むという行為が人に不審を抱かせるらしいということ、そして担任が私のことを信頼し、かつその異端ぶりを誇りにすらしてくれているらしいこと等を瞬時に悟った。丸ごと受け入れられている感覚。あれはいいものだったと今でも思う」。
この件(くだり)を読んで、私が都立富士高1年の時の担任の唐木宏先生を思い出してしまいました。成績が酷く低迷していたので、先生から咎められることを覚悟していたのに、「君は、実にいい素質に恵まれている。好漢、奮起せよ!」と言われたのです。この時以来、気持ちが落ち込むたびに、先生の「好漢、奮起せよ!」という声に励まされて立ち上がってきたのです。
「アン・シャーリーの孤独、村岡花子の孤独」は、『赤毛のアン』(ルーシー・モード・モンゴメリ著、村岡花子訳、新潮文庫)を深く読み込んでいる著者だからこそ書けたエッセイだと感じました。
「誰にもわかってもらえない、誰もわからないだろう――その『孤独』は、彼女(アン)の中核をなしているはずなのだ。けれどそれがなんなのだ。生きているかぎり、『今』を目一杯楽しまなければ。少女時代の彼女のとめどない饒舌には、そういう圧倒的な不幸に打たれて終わらない、生命力のようなものが感じられる。自らの手で、運命を切り拓いていくしかない、素の人間としての気概。(『赤毛のアン』の訳者の)村岡花子もまた、少女の頃は家庭との縁が薄く、両親の意識レベルは高かったとはいえ経済的には恵まれなかった。その利発さで給費生として東洋英和女学校に入学を許され、授業料を免除され寮生活をしていたのだった。学生とはいえ、家庭教師もし、実家に仕送りもしていた」。
「(『赤毛のアン』の原作者のルーシー・モード・)モンゴメリも同様に家族の縁の薄い人であった。母とは幼い頃に死別、厳格な祖父母に引き取られ、育てられる。十代の一時期、父の再婚家庭で過ごしてみるものの、しっくりいかない。彼女の書く小説の主人公たちのほとんどが、平均的な家庭(両親ともに健在で仲のいい兄弟に恵まれている)を持たない少女たちなのである。彼女が繰り返し書いて乗り越えようとしたのは、自分の少女期の孤独であったのではないだろうか。・・・村岡花子は、アンの饒舌の裏にある深い孤独を感じ取り、これもまた深いレベルで共鳴していたのだろう。アンの物語を翻訳するということは、彼女の存在の核心に近いことだったに違いない。自分自身をかけて、戦中の言論統制、灯火管制のなか、戦火をくぐるようにして原稿を守り抜いたのだろう」。
「温かい愛情が与えられなければ、子どもは生きることがつらい。子どもでなくてもそうだ。『赤毛のアン』が私たちに与えてくれるものの中で、最も貴重なものの一つは、直接的な愛でなくても愛の代替になるもの、孤独を抱えたまま生きることへの励ましであった。モンゴメリや村岡花子が取り憑かれたようにアンの物語に向かい、そこで育んでいたのは――彼女たちが意識していなくても――自分自身の少女期でもあったのではないか。そのような一心不乱の真摯なものでなくて、なぜここまで読者がつくだろう。それぞれの孤独のさらに奥深くで、私たちは皆繋がっている」。