『赤毛のアン』が誕生するまで――ルーシー・モード・モンゴメリの半生・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1594)】
ジャコウアゲハの雄、ナツアカネの雄、ノシメトンボをカメラに収めました。ツクツクボウシ(左)とヒグラシ(右)の抜け殻が並んでぶら下がっています。アブラゼミの抜け殻に比べると、ツクツクボウシの細さがよく分かります。ホウセンカの写真を撮ってもいいか尋ねたところ、農地の主がわざわざ地面から抜いて持たせてくれました。因みに、本日の歩数は10,824でした。
閑話休題、『ストーリー・オブ・マイ・キャリア――「赤毛のアン」が生まれるまで』(ルーシー・モード・モンゴメリ著、水谷利美訳、柏書房)では、『赤毛のアン』の著者、ルーシー・モード・モンゴメリが自ら、『赤毛のアン』誕生までの半生を語っています。
「プリンス・オブ・ウェールズ・カレッジを卒業した後、私は1年間プリンス・エドワード島のビデフォードの学校で教えました。私はたくさん物を書き、多くのことを学びましたが、私の書いたものは相変わらず(出版社から)送り返されていて、2つの季刊誌だけが採用してくれたものの、その編集者は明らかに文学はそれ自体が報酬であり、金銭的対価とは無関係だと考えていたようです。すっかり失望してあきらめてしまわなかったのが不思議だと我ながらよく思います。最初のうちは、骨を折って苦しみながら書いた物語や詩が、冷たい拒絶を告げるあの小さな紙きれといっしょに戻ってくると、非常に傷ついたものでした。決まって落胆の涙が思わず溢れてきて、私はこっそり出て行って、その哀れなしわくちゃの原稿をトランクの底に隠したものでした。でも、しばらくすると、そういうことにも慣れてタフになり、気にしないようになりました。私はただ覚悟を決め、『絶対に成功してみせる』とつぶやくのでした。私は自分を信じて、一人でひそやかに静かにもがき続けました。私は誰にも自分の野心や努力や失敗のことを告げませんでした。どんなに落胆し、どんなに挫折を感じようとも、心の奥底では、いつか必ず『頂きに到達する』ということが分かっていました」。
「私はいつもノートを持ち歩いていて、プロットのアイディアや出来事、登場人物、描写表現など、思いついたときに書き留めていました。1904年の春、日曜学校の新聞に書きたいと思っていた短い連載に何か使えそうなものがないかと、このノートをぺらぺらめくっていたのです。すると何年も前に書いて消えかかっていたこんなメモを見つけました。『初老の夫婦が孤児院に男の子を依頼する。手違いで二人のところに女の子が送られてくる』。これはいけると思いました。私はまず大まかな章立てを決め、手法を考え、挿話を選び、私のヒロインのことを『雛を抱くようにじっと考え』ました。アン(Anne)は――計画的にそのように名づけたのではなく、重要な『e』さえも含めてすでに名づけられたものとして私のイメージの中にパッとひらめいたのですが――どんどん拡大して、すぐに私には現実の存在に思えるようになり、異常なほど私をとりこにしてしまったのです。アンが訴えてくるので、すぐに終わってしまう小さな連載だけで彼女を使い捨てにするのはすごくもったいない気がしてきました。そしてこんな考えが浮かんだのです、『本を書こう。書きたいものはある。あとは一冊の本に足る長さに広げるだけでいいんだわ』。その結果が『赤毛のアン』でした。私は毎夕、いつもの仕事を終えた後にこれを書き、ほとんどの部分を何年間も私の部屋となっていた切妻屋根の小さな部屋の窓辺で書きました。私はこれを1904年の春に書き始めました。書き終えたのは1905年の10月のことでした」。
訳者あとがきに、こういう一節があります。「モード(・モンゴメリ)は『アルプスの道』を登り切って、成功という名の頂上へと達しました。でも、頂上に達した後も、彼女にはさらにもがき苦しむ人生が待っていたのです。そして最期が自殺だったという衝撃的な事実。キリスト教の信仰が彼女の(そして牧師である<夫の>ユーアンにとっても)魂の救いになり得なかったことは、同じクリスチャンとして残念でたまりません。彼女は、宗教は社交クラブ以上の何ものでもないと語ったこともあるようでした。様々な困難の中、モードは驚くべき数の作品を残しました」。モンゴメリの最期については、冠状動脈血栓症が死因とされ、長い間、真相が伏せられてきたが、深刻な神経衰弱による服毒自殺だったことが2008年9月に公表されました。
私のような『赤毛のアン』の熱烈なファンにとっては、見逃せない一冊です。