悩むと、山に登った――北杜夫の青春の思い出・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1775)】
ナノハナ(セイヨウアブラナ)が黄色い花を咲かせています。因みに、本日の歩数は10,671でした。
閑話休題、『どくとるマンボウ 青春の山』(北杜夫著、山と溪谷社・ヤマケイ文庫)は、山登りや昆虫採集についての北杜夫のエッセイ集です。
「神河内(かみこうち)」は、昭和20年7月に初めて訪れた上高地が舞台です。
「私を夜半過ぎまで寝つかせなかったのは、いよいよおし迫ってきた戦局、その本土決戦で自分も死ぬにちがいないこと、そういう青春期の過度で極端なまでの感傷からであった。・・・私はいずれ自分が死ぬことを怖れてはいなかった。しかし、憧れの白線帽をかぶり、中学とはおのずから別世界であろうせっかく入学できた松本高校に、一刻でもあれ入ってみたかった」。
「もう一つ、そうした感傷を助長させたのは、父に対する考え方の変化である。父は雷親父で、幼い頃からその激怒の凄じさに、こんな父を持って損をしたと考えることのほうが多かった。昆虫採集などよい趣味だと思うのだが、それさえも禁じ、学校の勉強だけをしろと叱った。世間では偉い人だと言われているようだが、私は父の短歌を読んだこともなかったし、どこが偉いのか露ほどもわからなかった。また私の小さい頃から父は母と別居しており、世田谷の本院に暮している母のところに遊びにゆくと彼女は優しく、どういう事情で離れて暮しているのかは不明だったが、とにかく母を追いだしたらしい父に私は恨みがましい気持さえ抱いていた。それが家が焼け、親類の家にしばらく世話になったとき、そこに父の歌集『寒雲』があった。私はそれを読み、それまでどちらかというと理科少年であったのに、その歌の幾何かにいたく感動した」。
「痛む足を引きずるようにして、一つの高い崖を右方にまわると、だしぬけに眼前が展けた。そして、写真でだけ見知っている茶褐色の岩だらけの焼岳が現われ、その横手に残雪も斑らの保高連峰が予想を越えて美々しく続いているのが目に映ってきた。そのときの感動を何と現わしたらよいものだろう。微妙に残雪と岩場が交錯するその山容は、およそこの世ならぬものとして私の目に映じた」。
「銅の時代」には、進路を巡って父・斎藤茂吉と揉めたことが綴られています。
「私は、ファーブルのような道を進みたいと思った。・・・医学部でなく動物学へ進みたいという志望を、父に打ちあけるのが怖ろしかった。父という男は、この世で私の知っている人物の中で最高級におっかない性格であった。ただおっかないだけならいいのだが、厄介なことに、子供に対し専横な愛情まで所有していた。私はさんざん迷い悩んだ末、自分の志望についてまだ大石田に疎開している父に手紙を書いた。果して父は反対した」。
「私が少なからず神がかり的であったのは、一人で穂高を見たなら、おそらくこの鬱々たる心情も回復するであろうと自ら信じたことである。・・・ついに私は峠の頂きに立ち、眼前に立ちはだかる懐しい穂高の偉容を見た。・・・一点の雪もない穂高、永劫の風化にさらされ洗われた大岩塊は、圧倒的に巨大にすぎ、それを眺める私はあまりに微小な存在にすぎなかった。このとき、私の神経衰弱状態は嘘のようにあらかた消失した」。
私にも、甘く、ほろ苦い青春時代があったことを思い出してしまいました。