ブッダは実在したのか、世界の宗教は消滅に向かうのか――を問う一冊・・・【情熱の本箱(339)】
『教養としての世界宗教史』(島田裕巳著、宝島社)は、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム、ゾロアスター教、マニ教、バラモン教、仏教、ヒンドゥー教、儒教、道教、神道の歴史を俯瞰的に学ぶことができる便利な一冊である。
私が強烈な衝撃を受けたのは、「ブッダは歴史上の人物といえるか」という問題提起と、「現代の世界では宗教は消滅に向かっている」という未来を見据えた現状認識である。
「現在の私たちは、ブッダが実在したことを疑っていない。古代のインドにシャークヤ族の王子としてゴータマ・シッダールタという人間が生まれ、出家して修行を行った後、悟りを開き、仏教という新しい宗教を生むことになったのだと、私たちは信じている」。【「シャークヤ族」の「ク」は小文字が正しい】
「最初期の原始仏典において、ブッダということばが、固有名詞ではなく、(悟りを求めて修行を行う人間たちを指す)普通名詞として使われ、しかも複数形で用いられたということは、並川(孝儀)はそうした言い方はしていないものの、ブッダは実在しなかったと述べているようなものである。仏教という宗教は、ブッダという一人の人間の宗教体験から発しているわけではない。この指摘は、極めて重要で、かなり衝撃的なものである」。
ブッダが修行者たちを指す普通名詞だったとしても、ブッダという歴史上の人物が実在したという考え方を変更する必要を、私は感じない。
「戦後になるまで、日本でさえ平均寿命は短く40歳代だった。乳幼児死亡率も高く、若くして亡くなる人たちも少なくなかった。つまり、『いつまで生きられるか分からない』という状態のなかで、人々は生きていたことになる。ところが、平均寿命が伸びることによって、そうした感覚は薄れていく。もちろん、高齢に達してはいない段階で亡くなる人もいるが、多くの人たちは、自分も相当に長生きができることを前提に人生を考えるようになっている。たとえ、重大な病にかかっても、昔ならそれが死に直結する病であっても、いまは治るようにもなってきた。そうなると、人々はいつまで生きられるか分からないとは考えなくなっていく。私はそこに、死生観の根本的な革新が起こったと考えている。いつまで生きられるか分からないから、とりあえず死ぬまで生きようという死生観を、仮に『A』と呼ぶなら、長寿社会の死生観は、高齢まで生きることを前提とした『B』ということになる。先進国では軒並みAからBへの転換が起こっている。いったんBの死生観を持つようになれば、Aに逆戻りすることはない。転換は不可逆的なものである。Bの死生観が生まれたのはごく最近のことで、人類はずっとAの死生観で生きてきた。当然、宗教もAの死生観を背景にして生み出されてきたものであり、死ということが中心的な問題で、死後にどういった世界に生まれるかを説くことを役割としてきた。しかも、Aの死生観の時代には、社会環境は十分に整えられてはおらず、自然災害や戦争という事態が起これば、社会は混乱し、伝染病が流行したり、飢饉が発生したりした。現世は苦しい生活が続く世界であり、そうした世界に生きている人間は、死後によりよい世界に生まれ変わることを望んだ。したがって宗教は来世をとくに問題にした。それは、一神教でも多神教でも変わらない。いかに幸福な来世を実現するか。宗教の根本的なテーマはそこに求められたのである。ところが、次第にBの死生観に転換していくことで、宗教は課題とするテーマを失っていった。現世に幸福が得られる社会になれば、来世への関心は薄れる。宗教それぞれが、よりよい来世に生まれ変わることも約束し、そのための宗教的な実践の意義を説いたとしても、Bの死生観をもつ人間の関心を集めることは難しい。それはもう不可能である」。
「先進国において、宗教が衰退し、消滅するという事態が生まれつつあるのも、AからBへの死生観の転換が影響している。その転換が不可逆のものであるとするなら、宗教の出番がふたたび訪れることはない。一時、各国で新宗教が信者を集めたのも、病気治しを期待されたからである。いまは、病にかかったとき、宗教に救いを求める人々は少ない。宗教に頼るより、病院にかかった方が、はるかに病は治るからである。死生観がAからBへと転換するなかで、それでも宗教が果たすべき役割はあるのだろうか。いま、宗教について問われているのは、そのことである」。
個人的には、宗教はその役割は終えたと考えている。