榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

ドストエフスキーが綴る、妻の不貞に気づかぬ寝取られ夫の物語・・・【情熱の本箱(163)】

【ほんばこや 2016年11月25日号】 情熱の本箱(163)

永遠の夫』(フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー著、千種堅訳、新潮文庫)は、私がこれまで親しんできた『カラマーゾフの兄弟』や『罪と罰』といったドストエフスキー作品とは、いささか毛色の異なった中篇である。

妻の不貞に気づかぬ寝取られ夫、パーヴェル・パーヴロヴィチ・トルソーツキイの妻、ナターリヤ・ヴァシーリエヴは、ヴェリチャーニノフの思い出の中にしか登場しない。「この女には何かきわめて非凡なもの――相手を引きつけ、奴隷にし、支配してしまう能力といったものがあったことになる。・・・『だいたい、そんなにべっぴんというほうではない。いや、ひょっとすると、まったく見られたものではないかもしれない』。ヴェリチャーニノフが会ったとき、彼女はもう28歳だった。・・・物腰は地方の上流婦人にふさわしく、たしかに気転もきくほうだった。・・・何ごとにせよ、彼女は自分が正しくなかったとか、悪かったなど、考えたこともなかった。彼女は常日ごろ、かぞえきれないほど夫に対して不貞を働いてきたが、良心の呵責といったものはまるっきり感じもしなかった。・・・彼女は愛人に対して忠実だったが、ただし、それは飽きが来ない間のことである。彼女は愛人をいじめるのが好きなら、恩恵をほどこすのも好きだった。情熱的で、残酷で、官能的なタイプだった。彼女は淫乱というものを憎み、信じられないほどきびしく批判していたが、そのくせ、彼女自身は淫乱だった。だが、いかなる事実を突きつけても、彼女に自分の淫乱ぶりを認めさせることはできなかった」。

1年に亘る熱愛の後、次の愛人の登場により、「はき古したぼろ靴」のように放り出されたヴェリチャーニノフの前に、突然、帽子に喪章を着けたトルソーツキイが姿を現したのは、それから9年後のことであった。トルソーツキイは、妻が病気で急逝したことを告げると同時に、「青貝の象嵌に銀の飾りのついた黒檀の手箱が彼女の机に残っていたというわけです。それも鍵のついた、なかなかきれいな手箱でしてね、先祖代々のものを、彼女がおばあさんから引きついだのでした。それでです、この手箱ですべてが判明したというわけです」と言い出すではないか。しかも、ヴェリチャーニノフ自身の子と思われる8歳ぐらいの娘を伴ってきているのだから、トルソーツキイに悪事がばれていないと思い込んでいたヴェリチャーニノフとしては、驚き慌てるのも当然だろう。

この後、ヴェリチャーニノフとトルソーツキイとの間で、喜劇というか、悲劇というか、さまざまな事態が展開されるのだが、やがて、驚くべき結末が訪れる。

ところが、ここで物語が一件落着とはならないのが、いかにも粘着質のドストエフスキーらしいではないか。その2年後、偶然、思わぬ所で、思わぬ状況下で二人は再会するのである。

本作品のおかげで、もう一人のドストエフスキーに出会えた気分がする。