「断碑」と「石の骨」の主人公には、清張が乗り移っている・・・【山椒読書論(212)】
松本清張の短篇はどれも読み応えがあるが、「断碑」と「石の骨」(光文社文庫『張込み――松本清張短編全集(3)』所収)の迫力には圧倒される。
「断碑」の主人公・木村卓治は、「弥生式土器時代に水稲による原始農業が存在していた。当時の原始社会には既に貧富の差と階級が存在していた」という説を唱えた在野の考古学者・森本六爾(ろくじ)がモデルであるが、学歴も人脈もないため、学界から冷遇され続ける。「黙殺と冷嘲が学界の返事であった」。
これまでの学説を塗り替えたと自負する卓治は、因循姑息な学界にたった独りで戦いを挑んでいく。考古学の恩師や先輩から絶交を言い渡された時、「彼(卓治)はすぐに答えた。『わかりました。これからは高崎、杉山、佐藤の打倒を目標に闘います』」。「それ(卓治の発表論文)はことごとく高崎健二と杉山道雄の仕事に食いいり、それより新鮮で鋭かった。・・・考古学者の誰彼のことを罵倒した」。
卓治の狷介孤高の性格は確かに度を超えているが、時代を画する大胆な卓説は、このようなタイプの人物だからこそ到達することができたのだろう。
「それらの悪口や嘲笑が卓治の耳に殺到する。頭脳(あたま)が苛立った。誰も彼に寄りついてこない。皆が彼をにくんでいた。(卓治が始めた)『考古学界』に拠っている年若い三四人だけが彼のただ一つの手兵であった。それを熱心に彼は育てた。誰も相手にしないから、若い者を集めて先生になっているのだとわらわれた。(しかし彼らは現在では第一線の教授となり学者となった)」。
こういう彼を支え続けたのが、妻・シズエであった。「(卓治は結核で)昭和11(1936)年1月22日に息をひいた。シズエの(結核による)死から2カ月後であった。34歳。遺品は埃をかぶったマジョリカ焼きの茶碗と菊判4冊分の切抜きがあるだけであった」。
「石の骨」の主人公・黒津は、「旧石器時代人の骨の化石を発見した」と主張した民間の考古学者・直良(なおら)信夫がモデルである。「ズシリと重量感が手にきた。しばらくそのまま立って手の化石を眺めていた。いつかはこういう一瞬がくる、その瞬間がいまきたと感じながら、妙に現実感がなかった。そのくせ、今が己(おれ)の生涯の頂点だな、己の一生が何もかもこの瞬間を頂点としているな、と思いつづけていた。息苦しいくらい動悸がうって、その物体――古代人の腰骨化石を恐る恐る手でさすりはじめたのは、そういう数秒の放心が断れてからであった。・・・旧石器時代は大陸や欧州の方にはあるが、日本にはまだ認められないというのが、学界の定説であった。その説がいま覆されるかもわからないのだ。己は心臓も手足も慄えた」。1931(昭和6)年4月18日のことであった。
黒津も、卓治同様、学歴・人脈がないため、この大発見は学界から無視され続ける。「『おれは学閥の恩恵もなく、一人の味方もない。周囲は敵だらけだ。おれが学問の世界に生きていくには、こうしなければならぬのだ』と己は(妻のふみ子に)言った」。
戦後間もなく、失意の彼に救いの手が伸ばされる。人類学の権威・水田嘉幸(長谷部言人<ことんど>がモデル)が鑑定して、旧石器時代人の骨と認めてくれたのだ。ところが、「明石原人」と学名を命名した長谷部は、発見者を自分としてしまう。言葉を換えれば、直良は長谷部に業績を奪われてしまったのだ。しかも、その後の長谷部を団長とする現地の発掘調査に直良は加えてもらえない。
この人骨化石の標本は空襲で失われてしまう。原人の骨ではないという意見が現在の学界で大勢を占めているため、「明石原人」ではなく「明石人」と呼ばれることが多いが、日本にも間違いなく旧石器時代があった(=旧石器時代人がいた)ことが、1949年に至り相沢忠洋によって証明されたのである。
黒津を支え続けたのも、妻であった。卓治と黒津の妻の献身ぶりには胸が熱くなってしまう。ここに真の夫婦愛がある。
因みに、森本六爾と直良信夫は、互いにとって数少ない親友であった。
この2作品の主人公には、学歴・人脈がなく、その巨大な業績と国民的人気にも拘わらず、文学界で疎外され続けた清張の魂が乗り移っている。自分の主題(テーマ)に命を懸けた人物への心からの共感と、異物を排除しようとする文学界や学界への怨念の炎が、私たち読者を焼き尽くさんばかりに迫ってくる。