『野菊の墓』の民子はひとりでよく頑張った、『或る女』の葉子は肉食系女子だった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3024)】
フヨウ(写真1)、カンナ(写真2、3)が咲いています。ツマグロヒョウモンの雄(写真4)をカメラに収めました。
閑話休題、『出世と恋愛――近代文学で読む男と女』(斎藤美奈子著、講談社現代新書)で、とりわけ興味深いのは、●野島某の妄想――武者小路実篤『友情』、●戸村民子の焦燥――伊藤左千夫『野菊の墓』、●早月葉子の激情――有島武郎『或る女』、の3つです。
●野島某の妄想――武者小路実篤『友情』
斎藤美奈子は、『友情』を恋愛結婚至上主義という時代のトレンドに乗った作品と位置づけています。私は「恋愛至上主義者」を自任しているが、「恋愛結婚至上主義」という言葉は初めて知りました。
斎藤は、主人公の23歳の野島を「出会ってすぐ結婚を考える男」、ヒロインの16歳の杉子を「新しい女」と評しています。「親が結婚を仕切る時代に、杉子は自らの意思で結婚相手を選び、積極的なアプローチをかけ、愛する人のハートをみごとに射止めたのである」。
「野島はなぜ失敗したのだろう。杉子の手紙は激烈だった。<私は野島さまの妻には死んでもならないつもりでおります><私は、どうしても野島さまのわきには、一時間以上は居たくないのです>。さらに別の手紙で彼女は書く。<野島さまは私と云うものをそっちのけにして勝手に私を人間ばなれしたものに築きあげて、そして勝手にそれを讃美していらっしゃるのです。ですから万一一緒になったら、私がただの女なのにお驚きになるでしょう>。野島の妄想の激しさに、彼女は気がついていたのである。半面、大宮への求愛は熱烈だった。<私は巴里に行きとうございます。一目あなたにお目にかかりたい。そうすれば死んでもいいと思います>」。
「野島よ、君はバカだが、人生はこれからだ。青年はこのようにして成長していくのである」。
●戸村民子の焦燥――伊藤左千夫『野菊の墓』
斎藤は、『野菊の墓』を「なめちゃいけない純愛小説」と読者に注意を促しています。
「『年上の女の子(=民子)』は政夫が思うほど『おぼこ』ではない。おそらく彼女は政夫にいってほしかったのだ。『僕は家を出るけど、必ず民さんを迎えに来るから待っていてほしい』と。その言質がないと、この先、二人の関係は保証されないからである。将来を誓い合うところまでは行かないと『私は政夫さんと一緒になる』という確信は持てず、親にいわれるままに、きっと嫁に行かされる。それをおぼこぶって、なーにが<民さんは野菊のような人だ>じゃ。大事な日なのだ。もっと実のある話をしなさいよ、このオタンコナスが」。
「美しい田園地帯を背景にした愛らしい恋物語に見える『野菊の墓』は、この時代の他の青春小説ともじつは通底している。やっぱりこれは近代の物語なのだ」。
「『野菊の墓』は、たしかに悲恋の物語ではある。しかし、死んだ民子はひとりでよく闘ったことは銘記しておくべきであろう」。
●早月葉子の激情――有島武郎『或る女』
斎藤は、『或る女』の主人公、25歳の早月葉子は「翔んでる女」であり、「肉食系女子」だと決めつけています。そして、この葉子のモデルは、国木田独歩の元妻・佐々城信子だと書かれています。
「葉子は、誰にも強制されることなく、多くの男性を踏みつけにして生きてきたのだ。その落とし前はどこかでつけなければならない。葉子の死だけに着目すれば、たしかにそれは肉食系女子に対する『懲罰』であり『因果応報』である。しかし、葉子のいない世界にもたらされるのは、むしろ彼女が嫌いだった希望と平和である」。
「世界文学の中で葉子に似た女性を探すとしたら、マーガレット・ミッチェル『風と共に去りぬ』の主人公、スカーレット・オハラだろう。容色を武器に男から男へと渡り歩く点でも、高慢で反省を知らない点でも、二人はよく似ている。物語の最後でレット・バトラーに捨てられたスカーレットは『明日は明日の風が吹く』といって出直しを誓う。一方、病魔のおかげで葉子は出直しのチャンスを失った。それでも『或る女』が『風と共に去りぬ』より17年も早く書かれたことは特筆に値する。それも男尊女卑で有名な極東の島国で。姦通罪や検閲の網をかいくぐって」。
「有島は『或る女』の4年後、人妻だった編集者の波多野秋子と軽井沢で情死した。一方、スキャンダルの主になった佐々城信子は、内縁関係とはいえ武井勘三郎との間に一女をもうけて20年ともに暮らし、武井と死別した後も71歳まで生きた。現実を生きる女性は物語のヒロインより逞しいのである」。
本書に刺激されて、久しぶりに、『友情』、『野菊の墓』、『或る女』を再読したくなりました。