舞踏会で男性たちの注目を集め有頂天の小役人の妻に、事態の暗転が・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2205)】
ツバメ(写真1)、モンシロチョウ(写真2)をカメラに収めました。ミズキ(写真3、4)、ヤマツツジ(写真5~7)、ヒラドツツジ(写真8)が咲いています。我が家の庭では、キンギョソウ(写真9、10)が咲いています。今宵は満月です。
閑話休題、敬愛する練達の読書家・書評家である谷沢永一が『人間通になる読書術・実践編』(谷沢永一著、PHP新書)で、「今までに書かれたあらゆる小説のなかで最も残酷な物語が『首かざり』である。・・・この夫婦の人生こそ思えば惨めの極みではないか。・・・人間性の枢要な根幹を鋭く衝いて、人間が生きてゆくために最も必要な要素は何かという問いに、最も鮮やかな逆説を以て電光一閃のように答えたのがこの名作である」と絶賛しているので、『首かざり』が収められている短篇集『モーパッサン短編集(2)』(ギィ・ド・モーパッサン著、青柳瑞穂訳、新潮文庫)を手にしました。
「安月給取りの家庭などに、運命の神さまの誤算から生れたとしか考えられないような、あんがいに垢ぬけのした美しい娘さんがあるものだが、彼女もその一人だった。持参金もなければ、遺産の目当てもあるわけではない。いわんや、金持のりっぱな男性に近づき、理解され、愛され、求婚される、そんな手蔓のあるはずもなかった。で、けっきょく、文部省の小役人と結婚してしまった」と、物語が始まります。
「彼女には晴着もなければ、装身具もなかった。じっさい、何ひとつ持っていなかったのだ。そのくせ、そんなものばかりが好きだった。自分はそんなものをつけるために生れついているような気さえした。それほどまでに彼女は、人に喜ばれたり、うらやまれたりしたかったのだ。人を惹きつけたり、みなからちやほやされたかったのだ」。
ある日、夫が、文部大臣官邸で開かれる舞踏会への大臣夫妻からの招待状を持ち帰ります。装身具を持たない妻は、友達からダイヤの素晴らしい首かざりを借りて、舞踏会に出席します。「宴会の当日になった。ロワゼル夫人は大成功だった。彼女はほかのだれよりも美しかった。上品で、優雅で、愛嬌があり、歓喜に上気していた。男という男が彼女に眼をつけ、名前をたずね、紹介してもらいたがった。大臣官房のお歴々もみな彼女と踊りたがった。大臣その人の眼にもとまった。彼女は快楽に酔いしれながら、無我夢中になって踊った。おのれの美貌の勝利、おのれの成功の光栄に浸りながら、もう何を考えることもできなかった。男たちから受けるお世辞、賞讃、彼女の身うちに目ざめてきた欲情、また、女心にとってはこのうえもなく甘美なこの勝利、こうしたものから生れた一種の至福の雲につつまれながら、彼女は夢うつつで踊るのだった」。
ところが、事態は暗転します。帰宅した妻が、首かざりをなくしてしまったことに気づいたのです。夫も仰天して、躍起となって捜すが見つかりません。そこで、借りた首かざりと寸分違わないものを、多額の借金をして購入せざるを得なくなります。
夫婦が生活を切り詰められるだけ切り詰めても、この巨額の負債を返し終えるには、実に10年の歳月を要したのです。「ロワゼル夫人も、いまではまるでおばあさんみたいだった。窮乏世帯が身について、骨節の強い、頑固な、荒っぽいお、かみさんになっていた。髪もろくろくとかさず、スカートがゆがんでいようが平気で、真っ赤な手をして、大声で話したり、ざあざあ水をぶっかけて、板敷を洗ったりした。それでも、夫が役所に行って留守のときなど、よく窓辺によっては、昔のあの夜会のことに思いをはせるのだった。自分があんなに美しくて、あんなにもてはやされた、あの舞踏会のことをなつかしく思うのだった。もしも彼女があの首かざりをなくさなかったら、どんなことになっていたろう? たれぞ知る? たれぞ知る? なんと人生はへんてこで、気まぐれなものだろう! なんと些細なことから、ひと一人が浮んだり、沈んだりすることだろう!」。
そして、最後の最後に至り、思いがけない真実が明らかになります。
読み終わって、意外な展開に驚きながらも、谷沢とは異なる印象を受けました。妻の失敗を責めることなく、一緒に苦労に苦労を重ねながら、借金返済に努めた夫に、なぜか、感動してしまったのです。