榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

北条義時、源実朝に対する著者の人物評価は読み応えがある・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2399)】

【読書クラブ 本好きですか? 2021年11月11日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2399)

あれっと言いながら、撮影助手(女房)が指し示す先で、2匹のベニシジミ(写真1、2)が絡まるようにくるくると飛び回っています。ウラギンシジミの雌(写真3~6)、キタテハ(写真7、8)、ツマグロヒョウモンの雄(写真9)、ヨシガモの雄(写真10)をカメラに収めました。女房は写真を撮られるのが大嫌いなので、已むを得ず、遠~くから写すことになります。我が家のハナミズキ(写真13、14)が紅葉しています。今宵は、月と木星が近づいています。因みに、本日の歩数は14,912でした。

閑話休題、『鎌倉殿と執権北条氏――義時はいかに朝廷を乗り越えたか』(坂井孝一著、NHK出版新書)では、著者の見解が率直に提示されています。

その第1は、北条泰時の母は、源頼朝の最初の妻だった八重ではないかという仮説です。八重が流人の頼朝と結ばれたことを知り怒った八重の父・伊東祐親によって、八重は一族の江間次郎に再嫁させられます。頼朝が挙兵すると、江間次郎は祐親に味方して討たれます。頼朝は江間の所領を信頼する北条義時に与え、そして、未亡人となった八重を義時に娶せ、その間に誕生したのが泰時だというのです。

その第2は、義時は沈着冷静で頭脳明晰な男だったと高く評価していることです。「(派手なパフォーマンスをしなかったのは)義時の個性・資質に負うところが大きいと考える。表向きの『名』ではなく裏方に徹して『実』を取り、一時の感情に流されず情勢を正確に分析する、沈着冷静で頭脳明晰な男だったように思われる。そんな男が(畠山)重忠を討った時には感情を露わにして(父・北条)時政を批判した。だからこそ人々は心を動かされたのである。さらに、将軍(源)実朝を排するという、越えてはいけない一線を時政が越えるに及んで、ついに義時は『時政に背き、将軍(実朝)母子と同心し、継母(牧の方)の党を滅ぼす』行動に出た。『何をしているのか』人々にみせたのである。情勢分析に長け、適切な機会が訪れるまではじっと待機するが、チャンスの到来と判断すれば果断・迅速に行動する、北条義時とはそんな男だったと考える。頼朝にも相通じるところがある。義時が頼朝から信頼され、重用きされたのもわかるような気がする」。

その第3は、実朝は公家かぶれの軟弱な将軍だったという通説を否定していることです。「これまで一般には、義時・(北条)政子の二人を中心とする北条氏が幕政の実権を握り、実朝は傀儡の将軍に過ぎなかったとされてきた。しかし、それは先入観と事実誤認に基づく虚像である。確かに、実朝は和歌に優れ、『金槐和歌集』という家集を自選・編集したほどの歌人であった。ただ、それは公家文化に耽溺した武家政権の長にあるまじき姿などではない。初代将軍の頼朝も和歌の名人だったのである。・・・当時の和歌は単なる個人の嗜みではなく、政治のツールでもあった。幕府の将軍たる頼朝や実朝が、朝廷の最高権力者たる治天の君、公式な王たる天皇、摂政・関白などの最上流の貴族たちと渡り合うために、和歌は必須の教養・政治ツールだったのである。しかも、実朝の時代に朝廷を牽引していたのは各分野に抜群の才を発揮した稀代の帝王、後鳥羽上皇であった。・・・実朝が、後鳥羽を模範として和歌の修業に励み、朝廷と友好関係を結んだのは当然の帰結である」。

「また、幕府の政治にも実朝は積極的であった。時政に擁立された12歳の頃はともかく、義時・政子の時代になった元久2(1205)年の末、ちょうど14歳から15歳にかけての頃から、自ら署判した文書を発給し始める。そして、従三位となって将軍家政所を開設した承元3(1209)年、18歳にして『将軍親裁』を本格化させた。・・・為政者としての実朝の姿を伝えるのは、幕府が編纂した『吾妻鏡』ばかりではない。同時代史料である『六代勝事記』は実朝の治世を『風やはらかに、四海波たゝず』と評し、鎌倉中・後期の仏教説話集『沙石集』の作者無住は、将軍実朝に『賢王』『聖人の質』をみいだした」。

驚くべきは、実朝が巨大な「唐船」の建造を命じ、渡宋しようとしたが、進水に失敗したことについて、著者独自の見方を展開していることです。「『吾妻鏡』は、(宋人の)陳和卿の言葉を信じて唐船建造を命じた実朝の無謀さと、馬鹿げた計画に反対した義時・(大江)広元の慧眼を対比的に描くとともに、計画の失敗は実朝の不吉さの象徴であるかのように叙述する。ここに(北条氏を称揚しようと意図する)『吾妻鏡』の潤色の巧妙な仕掛けがひそんでいる。従来、この唐船の記事と、『源氏の正統、この時に縮まりおはんぬ。子孫敢てこれを相継ぐべからず』という叙述を組み合わせ、幕政から遠ざけられて失望した実朝が日本脱出を図って渡宋を計画した、といいう説がまことしやかに唱えられてきた。まんまと『吾妻鏡』の仕掛けにはまったのである。また、そこには、和歌などの公家文化に耽溺した実朝は荒々しい東国武士から乖離し、幕政に関与できなかったという先入観も働いている」。

「(この計画に最初は反対した)義時や広元が賛成に回ったのはなぜか。それは、この唐船建造が実朝自身の渡宋のためではなく、将軍主導による宋との貿易を切り開くためだと知らされたからだと考える」。著者は、実朝の先見性ゆえのプロジェクトであったと主張しているのです。

この時代に関心を抱いている向きには見逃せない一冊です。