出世に駆られたサラリーマンに起こったこと・・・【山椒読書論(610)】
コミックス『人間交差点(5)――腐敗』(矢島正雄作、弘兼憲史画、小学館)に収められている「空白の走行」は、出世に駆られたサラリーマンの物語である。
タクシー運転手の土門は、若い女に追われて乗り込んできた男を自宅まで送り届けるが、その客が、かつての上司、戸川啓一だと知る。
土門が四井商事に入社して間もない研修期間中に、当時、会社を背負って立つ人物と見做されていた戸川営業部長が研修講師として研修所にやって来た。講義を終えた戸川が外車で老人を轢いてしまった現場を目撃した土門は、戸川に身代わりを命じられる。「心のどこかで、これはチャンスだと囁く声もした。僕ももう社会人だ、子供じゃない、綺麗ごとばかり言っていたら、絶対に人より早く出世はしないだろう・・・」。
拘置所で、数日後に老人が死んだことを知った土門は、自分は身代わりだと主張するが認められない。同期入社の安田が、運転していたのは土門だと証言したからである。
「その後、私はタクシー運転手になった。してもいない運転をしたことにされ、陥れられながら運転手になるのも皮肉な話だが、それは、私なりのむなしい無実の主張だったのかも知れない」。
そして、思いがけない形で戸川に再会したのである。戸川は、運転手が土門とは気づかなかっただろうが。
「皇居前広場で若い女性の変死体発見」という事件の犯人と疑われた戸川のアリバイを証明できるのは、戸川が乗ったタクシーの運選手だけだ。
突然、安田が土門を訪ねてくる。「昨夜遅く、俺の家に会社から電話があってな、今晩7時の便でカラチ行きさ。いくら商社マンとはいえ、昨日の今日だ。余りに突然すぎるが社命だ。戸川専務派が失墜した以上、従う以外にない。しかし、俺はおまえに負けたなんて思っちゃいないぞ。いくらおまえが昔の恨みを晴らしたところで、そんなものは所詮は敗北者の自己満足なんだ。俺が絶望しているだろうなんて思ってるんなら、大笑いだぜ!! ・・・おまえにそれを言いたかったんだ」。
土門は、こう返す。「戸川を車に乗せたことも、その時点でまだ女が生きていたことも、昨夜遅く警察へ行って、俺はすべてを証言したよ」。「土門!!・・・おまえ、何故、戸川の無実を証明してやったりしたんだ。あいつや俺のことを恨んでいるはずじゃないか!?」。
この問いに対する土門の答えには、心を激しく揺さぶられた。私も、かつて、出世競争に明け暮れた一人だからである。