最澄と徳一は、なぜ論争を繰り広げたのか・・・【情熱の本箱(389)】
最澄と宗教論争をした徳一(とくいつ)という学僧がいたことは聞き及んでいたが、浅学にして、徳一とはどういう人物なのか、どういう論争だったのか、論争の勝敗はどうなったのか――については知らなかった。
これらの疑問に対する答えが、『最澄と徳一 ――仏教史上最大の対決』(師茂樹著、岩波新書)で詳細に解説されているが、正直言って、いささか難解と言わざるを得ない。そこで、私の頭の中を、自分なりに整理しようと試みた次第である。こうした単純化は著者・師茂樹が戒めていることだが、お許し願うことにしよう。
●インドにて――
紀元1世紀頃、自らを大乗(偉大な道)と称するグループが、仏教の中で誕生した。彼らは、それまで主流派であった教団(部派)の信奉する教義を小乗(劣った道)と貶称し、新たな経典を作り始めた。主流派の人々にとって、人々に教えを語り、導くことができるブッダ(仏陀、「目覚めた者」)は世界にたった一人、釈迦仏だけであり、一般の修行者が目指すゴールはブッダになることではなかった。これに対し大乗グループの人々は、釈迦以外にも複数のブッダがいると主張し、また一般の仏教修行者もブッダになり、釈迦と同様に人々を教導する存在になれるのだと主張した。
●中国にて――
鳩摩羅什(344~413年、または350~409年)が漢訳した仏典「法華経」の影響を受け、生きとし生きるものはいずれもブッダになれる、これこそがブッダの真意なのだという大乗仏教の一乗真実説が広く信じられるようになった。しかし、大乗仏教の全てがこれと同じ考えを持っていたわけではない。唐の時代、玄奘(三蔵法師。602~664年)がインドから持ち帰り漢訳した仏典には、全ての衆生がブッダになれるわけではないと書かれていたからである。これが、実際には素質によってゴールが異なるとする三乗真実説であり、この説こそブッダが本当に説きたかった真理であると主張したのである。
●日本にて――
唐の仏教が日本に入ってくると、日本においても、一乗真実説と三乗真実説が激突することになる。奈良時代に日本にもたらされた法相宗は三乗真実説を掲げており、その代表的な存在が徳一(生没年不詳)である。一方、奈良時代後半から平安時代初期にかけて日本に輸入された天台宗は一乗真実説を信じており、その代表が最澄(766~822年)である。最澄が一乗真実説の立場から徳一に反論し、それに対して徳一が反論しという具合に論戦が繰り返された。これが徳一vs最澄の「三一権実」論争である。
●論争の勝敗について――
「最澄・徳一論争は、最澄の死によって一応の終止符が打たれた。・・・しかし、最澄・徳一論争に明確なジャッジは存在しない」。「地獄に落ちるリスクがあったとしても、言葉を用いた問答によって異なる教えを批判し、また理解しようとした徳一。真理を表現することができない言葉が引き起こす論争を、各宗の相互承認によって回避しようとした最澄。両者は、論争における様々なやりとりを通じてそれぞれの態度を表明し、それはまた後の日本仏教にも継承された」。