榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

『貞観政要』の太宗は本当に名君だったのか、玄奘が太宗に重用された真の理由とは・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2975)】

【読書クラブ 本好きですか? 2023年6月9日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2975)

私はスマホを持ってはいるが、電話とグーグルレンズしか使用していません。メール、情報収集、原稿執筆、画像管理はパソコンで行っています。ところが、世の中はスマホが圧倒的に優勢になり、スマホでは私のブログは非常に見にくいという声が多数寄せられるようになりました(写真1)。そこで、このほど、ブログをメンテナンスしてくれている業者に依頼し、スマホにも対応できるよう仕様に変更を加えました(パソコンでは従来どおりの見え方です)。その結果、ぐーんと見やすくなりました(写真2~4)。なお、画面上部のMENUの右のルーペ・マークをタップすると検索欄が現れ、ブログ内のさまざまな検索ができます(写真2、3)。私にとって、今日は「スマホ革命記念日」です!

閑話休題、『唐――東ユーラシアの大帝国』(森部豊著、中公新書)は、唐を従来の史観よりも大局的に捉えるべきだという立場から書かれています。「唐朝は、当時のユーラシア全域の中にどう位置づけられるのかという視点こそが、今後、ますます必要となるのだ。・・・中央ユーラシア型国家というのは、森安孝夫が提唱したもので、人口の少ない騎馬遊牧民などが、強力な騎馬軍事力と交易による経済力、そして文書行政などのノウハウをとりこんで、草原世界に立脚しつつ、人口の多い農耕民・都市民が居住する農耕世界を安定的に支配するシステムを確立した国家をいう。このタイプの王朝は、従来『征服王朝』としてとらえられてきた契丹国、金、元、清にとどまらず、広くユーラシア各地に誕生した西夏王国、西ウイグル王国、カラハン朝、ガズナ朝、セルジューク朝などもそうであるという。・・・遊牧社会に拠点をおき、少数の遊牧系の支配者集団で大多数の農耕民を支配する王朝が生まれていく。この意味において、290年にわたり東ユーラシアの地に君臨した唐朝の歴史的存在意義の一つは、こうした中央ユーラシア型王朝を準備したことだったともいえるのである」。

「唐は、気候の寒冷化によってモンゴリアから北中国へ移動した騎馬民族民の鮮卑人が、漢人勢力や他の騎馬遊牧民とときには争い、またときには共存していくプロセスから誕生した王朝ということができる」。

「唐は、文化的にも人種的にも言語的にも複雑で、多民族からなるハイブリッドな王朝だった。唐の皇室そのものが、鮮卑族の血、あるいはその文化を色濃くひくばかりか、唐の歴史をひもとくと、いたるところでテュルク系の騎馬遊牧民やイラン系のソグド人、あるいは朝鮮半島出身の人など、さまざまな出自の人たちが活躍する姿を見ることができる」。

本書を読むと、唐の歴史は、帝位を巡る権力闘争の連続であったことが、よく分かります。

個人的にとりわけ興味深いのは、●『貞観の治』と名君太宗の実像、●突厥第一帝国、●太宗と玄奘――の3つです。

●『貞観の治』と名君太宗の実像
「太宗(李世民)が明君といわれるのは、天下泰平の世をもたらしたのみならず、よく人材を登用し、臣下の諫言をうけいれたところにある。・・・太宗は、臣下と政治問答をおこない、それらはのち玄宗の時代にまとめられた。これが『貞観政要』である。太宗の臣下の意見をよく聞きいれる態度は『兼聴』といい、これは『貞観政要』を貫くテーマである。このことは、隋の煬帝が人の意見を聞かず、国をほろぼしたことに対するアンチテーゼとして出されたもので、『暗君煬帝』に対する『名君太宗』の創造ととらえることもできる。実際、太宗の『兼聴』は作為的な面もあったようである。貞観年間の中ごろ、魏徴は太宗に対し『陛下は貞観のはじめには、臣下が諫言するようにしむけ、よろこんでそれに従っておられましたが、今はそうではありません。つとめて諫言に従おうとされているものの、不愉快な顔色をしておられます』といっている。唐代史家の概説では、それでも太宗は反省しているから大器であると評しているが、その一方『太宗は幾分コンプレックスをもった知識人タイプの君主だった』(三田村泰助)という辛辣な評価もある」。後代の人間は『貞観政要』に描かれた太宗を過大評価していると考える私は、この部分を読んで、大きく頷いてしまいました。

●突厥第一帝国
「中国の北側のモンゴリアには、古くから遊牧民がおり、やがて馬を操作する技術を身につけ、騎馬遊牧民となっていった。ときに彼らは大きな連合体をつくりあげ、私たちが遊牧国家とよぶような大勢力に発展することがあった。匈奴や柔然などがそれであり、ここにいう突厥もその一例である。・・・(テュルク語を話す氏族)阿史那氏の族長だった土門が柔然をたおし、あらたな遊牧政権を樹立した(552年)。これを突厥第一帝国(突厥第一カガン国)といい、その首長はカガンを称した。匈奴や鮮卑、柔然などはモンゴル語系統の言語を話す人びとであったから、突厥第一帝国は、モンゴリアを制覇したはじめてのテュルク系遊牧政権ということができる。・・・(分裂後の)東突厥の強盛は、唐の建国後もつづいた。・・・(太宗がついに東突厥をほろぼすことに成功し)モンゴリア南部を支配下にいれた唐朝の威勢はモンゴリア全域に広まった」。この説明により、とかく分かり難い当時の騎馬遊牧民に対する理解が深まりました。

●太宗と玄奘
「太宗の時代、玄奘(602~664年)の活動を無視することはできない。のちに『西遊記』の三蔵法師のモデルともなったこの仏僧は、中国での仏教教義の研究に限界を感じ、唐を密出国してインドへ求法の旅におもむいた。・・・(インドの)ナーランダーの僧院で研鑽をつんだ玄奘は、大量の仏典をもって帰国した(645年)。そして玄奘は太宗の援助をうけ、インドからもちかえった大量の仏典の翻訳に従事した。・・・しかし、この時期の唐の皇室が重視したのは、道教であった。・・・ところで、太宗が玄奘を重用したのは、純粋な仏教信仰からではない。中央アジアに覇権をとなえる西突厥をほろぼすため、玄奘がもつ最新の中央アジアの情報を太宗は必要としていたのだ。・・・実は、私たちが現在見ることができる(玄奘の報告書)『大唐西域記』と、玄奘が太宗に提出した原本『大唐西域記』は別ものだったのではないか、という説がある。原本はもっと情報が多かったが、とりわけ西突厥にかかわる最新の中央アジア情報は、唐の西域計略上、重要な軍事機密ということで、世間に流布させるわけにはいかず、中央アジア部分の情報を秘匿したものが編集しなおされ、第二版として流布したというのだ。この仮説を裏付けるように、『大唐西域記』を実際に編集し執筆した玄奘の弟子の弁機は、太宗の娘の高陽公主と密通したとされ、腰から下を斬られるという刑に処されている。これは、もとの『大唐西域記』の内容を知っている弁機の口を封ずるためのでっちあげの事件だったのではないか、というのだ。・・・もう一つ、玄奘が亡くなったとき、完成していた玄奘の伝記も一緒に埋められた、という事実がある。・・・(後にほりだされた)この伝記には、『大唐西域記』に見えない西突厥などの情報が、しっかりと書かれている」。玄奘が太宗に重用された真の理由は、こういうことだったのか!