榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

史実の北条政子は、こういう人物だったのか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2765)】

【読書クラブ 本好きですか? 2022年11月11日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2765)

オシドリの雄(写真1、2)、雌(写真3)、マガモの雄(写真4~7)、オナガガモの雄(写真8、9)、雌(写真9)、オオバン(写真10、11)、ウラギンシジミの雌(写真12)をカメラに収めました。我が家の庭にウラナミシジミ(写真13)が現れました。リニューアルした餌台「空中楽園」に、早速、メジロ(写真14、15)とスズメ(写真14)がやって来ました。因みに、本日の歩数は11,792でした。

閑話休題、『史伝 北条政子――鎌倉幕府を導いた尼将軍』(山本みなみ著、NHK出版新書)は、北条政子の生涯について、『明月記』を始めとする古記録や古文書、さらには『愚管抄』、『六代勝事記』などの史籍を素材として、北条氏寄りの『吾妻鏡』の史料批判を行っています。

「政子の生涯は大きく3つに分けることができる。(源)頼朝の正妻である御台所の時代、頼朝の死後、出家し、後家として政治にも関与した時代、尼将軍として采配を振るった時代である」。

御台所の時代で、私の目を引いたのは、これらの記述です。「およそ将軍御台所の最たる役割は、その後継者を産むことであるといっても過言ではない。頼朝からの期待、そして(北条)時政をはじめとする北条一族からの期待は、計り知れぬものがあったのではないかと思われる。頼朝の後継者問題に目を向けると、(源)頼家が生まれるまでの間、弟の(源)義経が候補となる可能性を有していたことは見逃せない。頼朝と義経は異母兄弟ではあるが、『父子の義』を結んでいた。政子との間に未だ男子のいない頼朝は、義経を養子として遇したのである。幕府の将来を考えれば、致し方のないこととはいえ、政子の心中は複雑であっただろう」。

「第4子とはいえ、(源)実朝を産んだ時には36歳を迎えており、高齢出産といってよい。この時代は、母子ともに亡くなる場合も多く、命がけの出産であったといえよう。なんとしても、もう一人男子を産むという、政子の一種の執念のようなものを感じる。また、これほど苦労して産んだにもかかわらず、子どもたちにいずれも先立たれた不孝を嘆かずにはいられない」。

頼朝の後家の時代には、こういう一節があります。「頼朝の急死によって2代鎌倉殿に就任した頼家は、『吾妻鏡』では無能な人物として描かれる。しかし、鎌倉初期成立の歴史物語『六代勝事記』が『百発百中の芸に長じて、武器武家の先にこえたり』と記すように、実際は武勇に優れ、鎌倉殿にふさわしい人物であったといえる。また、頼家の政策や幕府発給文書の検討を通して、頼家が頼朝の政治方針を意欲的に継承していたことも指摘されている。『吾妻鏡』は、のちに頼家を廃位し、実朝を擁立する北条氏の行動を正当化するために、頼家を暗君として描く必要があったと考えらえる。・・・政子と頼家の関係の根幹には、北条氏と(頼家の乳母、乳母夫、妻が)比企氏の対立関係があった」。

「筆者も(『愚管抄』と)『大日本史』に従い、頼家殺害を下知したのは、(北条)義時であったと解釈したい。・・・のちに義時は政子とともに父時政に対して隠退を迫るが、義時には自身が北条氏の政治的躍進を支えてきたという自負が少なからずあったのではないだろうか」。

尼将軍の時代で注目すべきは、この件(くだり)です。「現在の教科書などでは、鎌倉幕府の将軍について、初代を頼朝、2代を頼家、3代を実朝、4代を(九条)頼経と数えているが、鎌倉時代の人々は、4代を政子、5代を頼経と認識していた。『吾妻鏡』の巻首にある『関東将軍次第』や『鎌倉年代記』『武家年代記』などの史料では、歴代将軍に政子も名を連ね、実朝死去の承久元(1219)年から政子がこの世を去る嘉禄元(1225)年の間は、政子の治世であったと記されている」。

「室町中期に成立した一条兼良著『樵談治要』によれば、政子は菅原為長に対して『貞観政要』10巻を仮名書きにするよう依頼し、それを政治の助けとしていたという。・・・政子も実質的な将軍として采配を振るうにあたって、為政者としての自覚を強く持ち、仮名の『貞観政要』を求めたのではないだろうか。幕府を維持するため、有能な為政者たろうとする女性政治家としての覚悟を窺うことができる」。

「(承久の乱勃発時の政子の御家人たちに対する演説は)同情を誘い、源氏将軍の恩を説き、考える隙を与えずに選択を迫る、見事な演説である。・・・長く御家人たちの精神激支柱であった政子の演説によって、鎌倉方は内部分裂することなく、(後鳥羽院の)京方と対峙することができたのである」。

説得力のある一冊です。