中国史上に悪名を残した隋の煬帝とは、こういう人物だったのか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1592)】
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閑話休題、『隋の煬帝(ようだい)』(宮崎市定著、中公文庫)を読み始めてすぐに、この作品は、宮崎市定の他の著作とは異なることに気付きました。学術的な表現が影を潜め、卑近な譬えも交えた軽快な語り口で話が進められているからです。これは、隋の煬帝という、一般にはあまり知名度の高くない人物の実態を広く知ってほしいという著者の思いの成せる業でしょう。それでいて、中国史に関する広く深い知識を縦横に駆使して、学問的水準はいささかも落としていないとは、さすが宮崎市定です。
本書から教えられたことが、3つあります。
第1は、息子の暴君・煬帝とは逆に名君とされている、南北朝の統一を果たし隋王朝を興した父・文帝が、相当のワルだったということ。
「(いろいろと策を弄して)随王楊堅は北周静帝を廃して、みずから天子の位についた(581年)。これが隋の高祖文帝である。ただし形式上は、北周の静帝が隋の文帝に位をゆずったという禅譲の儀式をしてみせた」。まさに、易姓革命です。
「(その後)無慈悲な殺戮が開始された。前天子の静帝、その2人の弟、静帝の叔父宇文賛以下6人とその子孫、静帝の大伯父に当る2人の明帝・閔帝の子孫、一族宇文導の子孫など、すべて男の子は全部殺されて北周王室は根絶やしにされたのである」。静帝は、文帝の長女の長男、すなわち孫だったのに、こういうことを行ったのです。
第2は、煬帝が皇太子であった兄と父を殺したとされているが、父殺しは史実ではないこと。
「隋の煬帝といえば、誰しもすぐ連想することは、中国史上に稀にみる淫乱暴虐な君主で、大昔の殷の紂王を再生させたような天子だというイメージであろう、それはある程度まで事実であるが、ただ注意しなければならないのは、彼は何も根っからの大悪人ではなかったということである。彼はきわめて平凡な、同時にいろいろな弱点をそなえた人間であった。そして彼をとりまく当時の環境は、社会自身に何らの理想がなく、みんなの人がてんでに争って権力を崇拝し、権力を追求し、そして権力を乱用する世の中であった。そういう環境におかれると、凡庸な君主ほど、大きな過失を犯しやすいのである。だから淫乱暴虐な天子は、その当時、他にも数えきれないほど多く出たのであって、いわばそれが時代の風潮であった。煬帝はその中の一人にすぎなかったのである」。
「(文帝の)次男揚広(後の煬帝)は兄よりも5つほど年下であり、革命のさいには年13歳であった。・・・晋王(揚広)は兄の皇太子がしだいに父母の信用を失ってきたのを見て、これはうまく行けば自分が代りに皇太子になれるかもしれぬという希望を抱きはじめた。そして父母の寵愛をかちうるためには、皇太子のやることと正反対のことをしてみせるに限ると考えついた。・・・(遂に)文帝は次男の晋王揚広を立てて皇太子とした。廃太子の身柄は、新太子の許に預けられた」。
「(最も信ずべき正史とされている『隋書』の文帝本紀によれば)文帝は長い病気のあと、しだいしだいに痩せ細って、朽木が倒れるように死んだことになっている。ところが同じ『隋書』の中で、列伝の部分を見ると、ここにははなはだショッキングな、奇怪きわまる風説を記している。文帝の死は自然死ではなくて、皇太子によって工作された結果だというのである。話としてはこのほうが面白いので、後世の史書はおおむね、文帝被弑説を採用しており、一般の常識としてもこのほうが広く通用しているようである」。
「文帝が死んで9日目にはじめて喪が発表され、皇太子が即位した。これこそ中国歴史上に最大の悪名を残した煬帝その人である(604年)」。部下に命じて、兄を縊死させました。
「失敗すれば失敗するほど、前の失敗を取り戻そうとして焦るのが煬帝の凡庸な点であった。煬帝はまたも懲りずに、第3回の高句麗侵略の軍を起こした」。対高句麗戦の前線で揚玄感の反乱の報に接した煬帝は、揚州へ逃げ出します。「反乱が瞬く間に全国的に広まった理由は、いずれにも共通した要素として煬帝の虐政に対する反感がある」。
「煬帝は都落ちをして江都へ逃げてきた立場ではあっても、これまで身についた奢侈、荒淫の生活は改められなかった。後宮には仕切られた小部屋が100室あまり造ってある。1室ごとに気に入りの美人が住んで、煬帝の入来を待ち設け、思い思いに装飾や料理の献立てに趣向をこらした。・・・いつも盃を口から離さず、終日、酔いしれていた」。
反乱軍に追い詰められた煬帝は、縊死されて果て、隋は滅亡してしまいます。「彼は古いやり方で権力を握り、古いやり方で権力を弄び、最後に古いやり方で殺されたのであった」。
第3は、煬帝は弱点の多い人物ではあるが、黄河と揚子江を結ぶ大運河を完成させていること。
「黄河から淮水に達する通済渠、淮水から揚子江に至る邘溝を開通させた。この水路は部分的にはすでに存在していたものもあるが、それを一本の大運河に仕上げたので、これによって国都長安から、揚子江口に近い江都(揚州)まで、船運がつつがなく往来できるようになった」。この大運河の全長およそ1500kmは、青森県から山口県に至る距離にほぼ相当します。ついでに日本との関係で言えば、日本から遣隋使が送られたのは、文帝、煬帝の時代のことです。