榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

『愚管抄』を、私は誤解していた・・・【情熱的読書人間のないしょ話(503)】

【amazon 『乱世の政治論 愚管抄を読む』 カスタマーレビュー 2016年8月26日】 情熱的読書人間のないしょ話(503)

思い出箱から小学4年生の時の絵日記を取り出してきました。画用紙を繋いだもので、測ったら5m7cmありました。62年前の8月12日には、父の田舎・茨城に泊まりがけで遊びに行っています。「・・・すぐ森に走った。この森には、かぶと虫、玉虫、くわがた虫、赤とんぼ、くまぜみ、みんみんぜみ、あぶらぜみ、つくつくぼうし、かみきり虫、つのとんぼ、かまきりなどがいる。その後、川へ魚とりに行った。取った物は、めだか八匹、えび五匹、ざりがに六匹、どじょう三匹、たぼ六匹、ふな二匹である。・・・」。末尾には、担任の木川和代先生が赤ペンで、「・・・こんなに毎日書くのは、なかなか大変でしたでしょう。よく努力しました。君の日記をよんでいると、毎日がとても楽しそうです。・・・」とコメントしています。脳裏に美形の木川先生の笑顔が鮮やかに甦ってきます。

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閑話休題、歴史関係の書籍でよく引用される『愚管抄』を、私は誤解していたことを『乱世の政治論 愚管抄を読む』(長崎浩著、平凡社新書)が教えてくれました。

天台座主という宗教界の大物・慈円が大所高所から著した、透徹した歴史観に貫かれた書と思い込んでいたのですが、本書で著者・長崎浩は私の思いもつかない慈円像を描き出しているのです。

「かつて、乱世に一人の知識人がいた。慈円である。乱世とは、戦乱と天災・飢饉・疫病・大火・群盗と新宗教運動などなどの一世紀、数え上げればきりもない。そして世の中が大きく変わる。慈円の『愚管抄』はこの時代を記述した歴史書であり、また時代を見据えて歴史の道理(法則性)を明らかにしようとした歴史理論の書である。一般にそう認められているが、それは違う。『愚管抄』は終始、慈円のリアルタイムの政治論であって、世の大転換にコミットしながら自らの政治理念を貫徹させようとし、同時にそれが挫折していく有様を記録している。理念とその敗北がそっくり慈円の政治思想となる」。

慈円にとっての「政治」については、「朝廷内部の家と家との対立あるいは連携関係、つまりは権力争いが政治になる。政治は限りなく世にいう政治、陰謀のリアルポリティクスに近づいていく」と、著者はなかなか手厳しいのです。

摂関九条兼実の弟にして天台座主、『新古今和歌集』の歌人として名高い慈円は、保元の乱(1156年)の前年に生まれました。保元の乱、平治の乱、源平の合戦を経て、鎌倉幕府成立に至るこの過程は、貴族から武士に政治の実権が移っていく激動の時代でした。

摂関家の出身である慈円にとって、天皇家と藤原家が相携えて政治を担当する合体体制が理想なのですが、現実は武士の力が強大化してしまっています。血気に逸る後鳥羽上皇がこういう現実を直視せず、討幕挙兵へと突き進んでいくのを見て、この暴挙を何とか思い止まらせようとして、『愚管抄』は書かれたのです。しかし、その願いは叶わず、承久の乱が起こり、朝廷は鎌倉武士団に鎮圧されてしまいます。この時、慈円は66歳、そして乱の4年後に歿します。

『愚管抄』には、慈円自身の政治理念が現実政治に裏切られ続けた不平不満が充満しています。

武士階級が自立した権力として姿を現した瞬間を、『愚管抄』はこう描いています。「『愚管抄』は(保元の乱で)後白河側の侍総大将の源義朝の言葉を記録している。『義朝はこれまで何度も戦をしてきましたが、その都度朝廷の意向を恐れて、どんな咎をこうむるかと戦の前からびくついていたものです。それが今日追討の宣旨をいただきまして、ただ今、敵の討伐に向かう心のなんと爽快なことか』。出陣の日の朝、紅も鮮やかな日の丸を打ち扇ぎながら、義朝はこのように述べたという。何といってもこれまでは、武士の合戦はみな私闘(私合戦)と見なされてきたのである。地方の武士団の合戦も朝廷が法にもとづいて罰する。この私闘が、いまや王法に公認された。自他ともに武士団が政治勢力として自立した」。

慈円は源頼朝を高く評価していますが、源実朝に対しては辛辣です。「愚かにも武人としての警戒心に欠け、文にばかり意を用いた実朝は大臣大将の面目を穢し、こうして源氏の血脈は跡形もなく消えてしまったのである」。