稀代の歌人・藤原定家は、自己中心的で、プライドが高い、出世主義者だった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2078)】
ジョウビタキの雌(写真1~4)、エナガ(写真5~7)、コゲラ(写真8~10)をカメラに収めました。さっと入浴を済ますことを烏の行水というが、ハシブトガラス(写真11~16)が入念に何度も水浴びしています。因みに、本日の歩数は14,953でした。
閑話休題、『藤原定家「明月記」の世界』(村井康彦著、岩波新書)を読んで、藤原定家に対する印象が一変してしまいました。
「『明月記』は、平安末期~鎌倉前期の一公家・藤原定家(1162~1241年)が、治承4(1180)年から嘉禎元(1235)年まで書き続けた漢文体(一部に和文あり)の日記である。年齢でいえば19歳(数え齢。以下同)の時より亡くなる6年前、74歳までの55カ年という長期にわたっている」。
「『明月記』は時代の変化を受けながらも、他の公家日記と同様子孫のために書き残した故実の書であるといってよいであろう」。
一方。「端的に言って定家の日記『明月記』は『極私日記』だった。これほどまで『私』が表出された日記は、他に見当たらない」。『明月記』ほど、本音が書き込まれている日記はないというのです。
「ところで『明月記』を読むうちに分ってきたのは、定家という人は無類の『見物』好きだったことである。・・・故実に人一倍関心と知識を持っていた定家の『見物好き』は、公家にとって最も望ましい資質だったといってよいのである。・・・人一倍『見物好き』の定家だが、人一倍『人見知り』な一面を持ち合わせていたことも記憶に留めておきたい。定家の見物好きは、野外だけではなかった。内裏で行なわれる諸行事においても適当な建物や場所に身を置き、行事の成り行きを『見物』している」。
「『明月記』を読み進める中で、定家がしばしば平常心を乱している様子が分る。その最たるものは、『除目(じもく)』にあった。除目の会議が近づくと必ず『心神殊悩』に陥る。『所望の事』が叶えられない不満の鬱積が定家の精神を嘖む。そしてその鉾先は、主家の九条家(兼実や良経)に向けられ、されには後鳥羽院に向かうことにもなる。その激しさは、時として、人間関係を破壊し自滅を招きかねない、そんな恐れさえ思わせるものがある。これは冗談であるが、そんな定家に問うてみたくなる、『あなたの血液型は何型ですか?』」。傑出した歌人・定家は、一方で、手段を選ばぬ出世主義者であり、怒りの感情を抑えられない激情家だったというのです。
「(定家は)自己中心的で、プライドが高く、人と接するのが苦手な性格だった」。
定家に関し、私には気に懸かることが2つあります。
1つは、定家の、最初の妻との間に儲けた長男・光家に対する冷たい仕打ちと、これとは対照的な、2番目の妻との間に儲けた末っ子・為家に対する猫可愛がりぶりです。「2人の息子に対する位置付けの違いがはっきりと見て取れよう。為家こそが家を継ぐべき一の息子であるが、光家は外人なのである。外人とは『うときひと』と読み『身内でない、よそ人』の意であるから、ここでは光家を家族ではないと言っているのである。・・・それにしても光家を外人とは、定家さん、冷酷に過ぎませんか」。
「(光家は)あれほどの差別扱いをされながら、何かあれば定家のところにやって来る。その素直さに感心させられる。しかし、光家がそれほど親孝行でも、定家の意識は変わることがなかった。・・・ちなみにこの年、光家は30歳、為家は16歳であった」。定家の明らかに度を超えた依怙贔屓に対しては、私だけでなく、本書の著者も眉を顰めています。
もう1つは、定家の歌人としての実力を認め、『新古今和歌集』の撰者に任じた後鳥羽院との関係です。
承久2(1220)年2月、定家が詠んだ歌が後鳥羽院の逆鱗に触れます。「(定家の歌は)処罰さえ覚悟の上という挑戦的とも思える歌であったといえよう。この時の定家は、これらの歌が院の目に触れることで不快感以上のものを与えるであろうことを予知していたと思う。定家はみずから危険領域に足を踏み入れたのである。・・・この(後鳥羽院の、以後、内裏での歌会に出席を禁ずるという)院勘(院による勘当)は解かれることなく、5月の承久の乱に及ぶ。そして定家も、以後、院に心を開くことはなかったのである」。定家というのは、和歌の才能は認めるとしても、何とも付き合い難い人物だったようです。
知的好奇心を掻き立てられる一冊です。