最高権力者の前でも自分の愛を貫いた女――老骨・榎戸誠の蔵出し書評選(その9)・・・【あなたの人生が最高に輝く時(96)】
●『歴史をさわがせた女たち 日本篇』(永井路子著、文春文庫)所収の「静御前――レジスタンスの舞姫」
●『現代語訳 吾妻鏡(3) 幕府と朝廷』(五味文彦・本郷和人編、吉川弘文館)
【静が愛した源義経】
その機知に富んだ戦術で、あれよあれよという間に平氏を滅ぼした源義経(1159~1189)は、一躍スターダムにのし上がり、これまで平氏に抑圧されてきた都の人々にもてはやされることになる。その義経に愛され、愛したのが、白拍子(歌舞を専業とする男装の舞姫)の静御前(生没年不詳)であった。
白拍子の起源については、いくつかの説があるが、「徒然草」の第225段には、「藤原通憲(信西)が磯禅師(静の母)に舞わせたのが白拍子の最初」と記されている。つまり、静は生粋の白拍子なのである。
【義経が陥った逆境】
日本の古代から中世への扉を押し開き、初の武士政権・鎌倉幕府の創始者となった源頼朝は、根っからの政治的人間であった。一方、頼朝の異母弟・義経は、頼朝の代理として源氏のライヴァル平氏を全滅させた軍事的天才であるが、政治音痴であった。頼朝に勝るとも劣らない老獪な政治的人間である後白河院の頼朝・義経離間策にまんまと乗せられた義経は、疑い深い性格の頼朝の不興を買い、疎外され、都を落ちていく。
まだ義経が都にいた時だが、頼朝の命を受けた武将が義経の館を急襲した折に、静がその動きにいち早く気づき急報したために、義経が難を逃れたというエピソードが「平家物語」、「義経記」に見える。
【静が大舞台で示した心意気】
吉野は女人禁制の山なので義経一行と泣く泣く別れた静は捕らえられ、鎌倉に送られる。義経の行方について厳しい尋問を受けるが、「知りません」の一点張り。そして、静は当代随一の白拍子としてその名が高かったため、頼朝・政子夫妻の前で舞を舞うことを強要される。
この時、鶴岡八幡宮の廻廊(舞殿はこの7年後の造営)で、静が舞いながら歌ったのが有名なこの歌である。
<よし(吉)野山 みねのしら雪 ふみ分(け)て いりにし人の あとぞこひ(い)しき>
言うまでもなく、義経を慕う歌である。
<しづ(ず)やしづ しづのを(お)だまき くり返し 昔を今に なすよしもがな>
どうぞ今一度、義経様の栄える世になりますように。2首の歌には義経を思う静の心情がほとばしっている(歌の表記は、「吾妻鏡(あずまかがみ)」に拠った)。
もちろん、この大胆な振る舞いは、反逆者・義経を恋い慕う歌とは何事かと、頼朝を激怒させる。静は自分の最愛の人を苦しめている、時の最高権力者に抵抗の気概を示したのである。凛とした静の生き方が凝縮しているこのシーンを思い浮かべると、その心意気に拍手を送りたくなってしまう。
その後、鎌倉の若い武将たちが静の宿所に押しかけ、酒宴を催し、大騒ぎしたことがあった。酔って図に乗った武将が静に言い寄った時、「私は頼朝様のご兄弟・義経様の妻です。世が世なら、このようなことなど許されませんよ」と、ぴしゃりとはねつけたのである。静にこれほど愛された義経という人物は、きっと静にふさわしい魅力的な男だったに違いない。