榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

日本の真珠湾奇襲攻撃を事前に察知したアメリカ女性がいた――老骨・榎戸誠の蔵出し書評選(その119)・・・【あなたの人生が最高に輝く時(206)】

【読書の森 2024年6月10日号】 あなたの人生が最高に輝く時(206)

●『ドロシー [くちなしの謎]――「真珠湾」を知っていた女』(徳岡孝夫著、文藝春秋)

ドロシー [くちなしの謎]――「真珠湾」を知っていた女』(徳岡孝夫著、文藝春秋)は、著者の記者魂が12年間かけて完成させた迫真のドキュメントである。

執念に衝き動かされた著者の追跡によって、3つの謎が明らかになる。

第1の謎は、アメリカにあって、日本の真珠湾奇襲攻撃を事前に察知したドロシー・ウッドラフ・エドガーズという女性とは何者なのか、ということ。

米海軍作戦部の通信部の通信保安課に所属して2週間しか経っていないドロシーが、真珠湾奇襲の前日(土曜日)に、自身が残業して翻訳した電文から「日本海軍が米太平洋艦隊の基地・真珠湾になみなみならぬ関心を寄せている」ことを察知し、直ちに直属の上司に報告したのに、彼女の能力を軽く見ていた無能・怠慢な上司が、土曜日ということで、それを放置したため、この緊急を要する情報はフランクリン・ルーズヴェルト大統領の手元に届かなかったのである。こうして、米国が事前に奇襲対策の手を打つチャンスは永久に失われてしまったのである。

このドロシーが軽井沢(万平ホテル近くの別荘地)生まれの、4分の1、日本人の血が混じったアメリカ人で、難関のお茶の水高女を卒業した才媛であり、戦前は、高島屋の専属デザイナーとして、洋装が普及し始めた日本の服飾界のエースとして、目覚ましい業績を上げ、戦後は、本人の希望で日本に戻り、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)繊維課長として、崩壊していた日本の繊維産業の復興に大きく貢献した人物ということが、著者の手で解き明かされていく。

彼女が真珠湾奇襲攻撃に遭遇したのは、日米の関係が険悪となり、米国に移った33歳の時のことであった。

ドロシーをよく知る人が、ドロシーの風貌について、「とにかく美人だった。痩せ型で背丈は165cmほど、色は透き通るように白く、高い鼻がキリッと引き締まった顔のアクセントになり、女優でいえば『風と共に去りぬ』のヴィヴィアン・リーに似ていた。いや、もう少ししとやかで、一輪の花に似た風情があった。流暢な日本語は、気品のある良家のお嬢さん言葉だった」と伝えている。

第2の謎は、ルーズヴェルト大統領は真珠湾奇襲攻撃の情報を事前に入手していながら、知らぬ振りをして敢えて日本に実行させ、米国の対日世論を一つにまとめるのに利用したとする、いわゆる「大統領謀略説」は正しいのか、ということ。

確かに、当時、緊張関係にあった日本の情報は米軍情報部によって刻々と傍受・解読・翻訳され、ルーズヴェルト大統領の執務室に届けられていた。日本の暗号は、米国に見破られ、解読されていたのである。ところが、ドロシーが翻訳した最重要電文が大統領に届くことはなかったのである。

第3の謎は、「事前の宣戦布告なしに真珠湾奇襲攻撃を行い、米海軍に甚大な損害を与えた日本は卑怯だ」という国際的な非難を日本が招いてしまったのはなぜか、ということ。

日本政府は「ワシントン時間の1941年12月7日午後1時に宣戦布告(正確には外交交渉打ち切り<断交>通告)を米国務長官に駐米日本大使が直接手交せよ」という訓電を打ったが、日本側の不手際で、これが実行されないうちに、日本海軍が真珠湾攻撃を開始してしまったのである。

「帝国海軍による真珠湾攻撃は、敵太平洋艦隊の主力を一撃のもとに殲滅した点では戦術的大勝利だったといえる。だが騙し討ちというアンフェアな手段に訴えたためにアメリカ国民を憤激させ、当時まだ根強かったアメリカの反戦世論を一掃し、アメリカという眠れる獅子を起してしまった点では戦略的大失敗だった」、「在米邦人だけではない。真珠湾の裏切り行為のために、日本人全体が何十年間も恥ずかしい思いをしなければならなかった」、「真珠湾の大失策は、アメリカによって広島、長崎への原子爆弾の正当化に使われた」と、著者が指摘しているが、全く同感である。

そして、「その責任は帝国海軍にはない。責任は、挙げて時の在ワシントン日本大使館員にある」と断言している。刻限が迫っているというのに、日本大使館では断交通告の清書ができていなかったのである。極秘の文書ということで、奥村勝蔵書記官がタイプライターを打ったのだが、彼はタイプが下手だった。「カクテル・パーティでは一人前にグラスを持つ外交官が、職務に直接関係するタイピングが素人芸だったとは、日本国にとって悲しむべき現実というほかない。大使館には井口貞夫参事官をはじめ寺崎英成、松平康東、八木正男ら戦後になって大活躍した錚々たる外交官がいたのに、彼らは祖国にとって、また自分たちにとって、千載一遇の日にいったい何をしていたのか」と手厳しい。「国家存亡の一夜を送別会や中華料理店での会食に費やした日本の国辱外交官を、戦後の日本人は裁かなかった。それどころか、国家に取り返しのつかない恥をかかせた外交官たちが戦後次々に出世するのを黙って見守った」という箇所を読んで、日本は今も変わっていないと感じるのは私だけだろうか。