椎名誠は只者ではないと再認識した夜――老骨・榎戸誠の蔵出し書評選(その257)・・・【あなたの人生が最高に輝く時(344)】
●『うれしくて今夜は眠れない――ナマコのからえばり』(椎名誠著、集英社文庫)
椎名誠のエッセイを読むと、頭の中のドロドロが排出されて、すきっとする。『うれしくて今夜は眠れない――ナマコのからえばり』(椎名誠著、集英社文庫)も、この例に漏れず、すきっとすることができた。
著者には悪いが、それほどたいしたことを書いているわけではないのに、彼のどのエッセイも読者のドロドロ排出剤としてこれほど効き目があるというのは、この著者は只者ではないということだ。
例えば、「『死』と『おんな』」では、「『おんな』というテーマは30~40代の頃にはあまりにもなまなましく、敬遠するテーマだったが、晩年の作家にとってはなかなかいいような気がする。いつまでも怪しい探検隊とか草野球などやっていられないのだ。とはいえ、どこでどういう女をみつけるか、が難しい。必ずしも美人でなくていい。むしろ、気持ちのいい人を探したい」といった具合である。
「危険な週末」では、「たまには肝臓を休めるために飲まない日をつくれ、といろんなヒトに再三言われているのだが、もうこの歳になったら、自分の肝臓の責任は自分でとるしかない。ある日、肝臓が『毎日毎日働き続けてきましたがもう疲れました。このへんで働くのをやめます。サヨナラ』と言って、ぼくに辞表をつきつけたとき、ぼくはいさぎよくそれを受理するつもりだ。『わしらはまだもう少しなんとか働けますが』とけなげに申し出てくれる熟練の心臓や腎臓などに感謝しつつ会社解散。『サヨナラだけが人生だ』と言って人生を終えたい」と、達者なものである。
「超早寝超早起きのモンダイ」では、「裏庭に畑でもあれば耕したり雑草をとりに行ったり柿の実をもぎに行ったりするのだが、裏庭に畑はねえ。そもそも裏庭というものがねえ。前庭もねえ。柿の木もねえ。あったとしてもいまは冬だから実がなってねえ。なんにもねえ。おらこんなうちいやだ。おら東京さ行くだ。といってもここはもう東京だ」という調子のよさだ。
文章もいいが、タイトルも洒落ている。「新潟から勝山までいい旅をした」、「毅然たるいいわけ」、「原稿職人の年末年始混乱期」、「駅弁の明るい未来にむけて」、「着脱自在人工胃袋の洗濯」、「『もしも、もしも』の退屈しのぎ」などなど、タイトルを見ただけで、読みたくなってしまう。
何の衒いもなく、書くことが好き、多数の連載を抱えることが好きとのたまう椎名誠は、今時珍しい、幸せな作家である。