知的放浪者・椎名誠の未知への挑戦・・・【リーダーのための読書論(19)】
『『十五少年漂流記』への旅』(椎名誠著、新潮選書)で、著者が自分自身をこう語っている。「ぼくは読書が好きである。それから自分でも呆れるほどよくうごきまわる。好奇心にかられてどこかに行く。それが隣町の公園であったり地球の裏側であったりする。本を読んで何か気になると、それを確かめねば気がすまない、というせっかちで落ち着きのない困った性格なのである」。椎名の長年に亘る数多の作品は、自分も著者と同じ性格だ、と自覚している読者たちによって支えられてきたのだろう。
この性格の原点は、小学生のときに出会った2冊の本――スウェン・ヘディンの『さまよえる湖』と、ジュール・ヴェルヌの『十五少年漂流記』だという。
本書は、冒険小説『十五少年漂流記』の舞台となった南太平洋の孤島を探し、その場に自分の足で立ってみたいという、いかにも著者らしい夢に挑戦した旅行の記録である。ヴェルヌ研究家の間でモデルとされてきた島は実は違うのではないか、本当のモデルの島は別の所にあるのではないか、さらに、この小説にはどうも隠された秘密があるのではないか、と著者は睨んだのだ。ヴェルヌはその作品にさまざまな謎や秘密を仕掛ける作家として知られているからである。そして、いろいろと回り道をしたものの、遂に『十五少年漂流記』に描かれた十五少年が漂着した無人島の地図とそっくりの島に辿り着くまでが臨場感豊かに描かれている。
未知のことに出会うとそれについての本を読むことが俄然楽しくなり、何か謎があると本を読んで個人的な解明に挑戦していくというのが、椎名の知的行動の端緒になっている。まだ見ぬ世界や知らない世界を知ることに知的な楽しみがある。知らない世界に入り込んでいくと思いがけない思考に浸ることができる。日常生活ではありふれたものと見做していたものが、未知の世界では全く異なった姿で立ち現れてくるので、今まで気がつかなかった大きな意味を突如知ったりする、と著者は言うのだ。この知的好奇心を満たすには、実際に冒険や旅行を体験するのが一番だが、探検記、冒険記を繙いて追体験するという方法も有効だ。
椎名らしさを味わうには、著者自らが「スーパーエッセイ」と呼ぶ、題材も文章も好き勝手で八方破れの初期の作品――『さらば国分寺書店のオババ』(椎名誠著、新潮文庫)、『気分はだぼだぼソース』(椎名誠著、三五館)、『かつをぶしの時代なのだ』(椎名誠著、集英社文庫)を読むに限る。それはこんな具合だ。「かつをぶしはたべものの王様であります。たべるものがなにもなくなり、旦那様、とうとう我が家の食糧が尽きました。わたしの全部着物も売りました。かくなる上は身を売って・・・などと妻が悲壮に三つ指突いて詫びにきたとしても、このかつをぶしと少々のコメ、わずかばかりの大根の切れっぱし、それにひとしずくの醤油さえあれば、私は笑って許してやることができる。かつをぶしさえあれば人間は不滅であります。かつをぶし料理は簡単である。しかし簡単であるが安易であってはならない。このへんがかつをぶし料理の要諦であります」。
「夕陽にむかい背を丸め痛恨のチーズケーキ九六〇円の春」「ある日、悲しみのドアをあけるとバランタインの水わりがあった」といった章のタイトルからも分かるように、著者のやりたい放題である。
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