榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

プーチンの「ロシア人とウクライナ人は一つの民族だ」、「ウクライナはロシア発祥の地だ」、「ゼレンスキーはネオ・ナチだ」といった発言の背景が分かった!・・・【情熱的読書人間のないしょ話(3851)】

【読書の森 2025年10月8日号】 情熱的読書人間のないしょ話(3851)

エゾビタキ(写真1~3)、トノサマバッタ(写真4)、ツチイナゴ(写真5)、イボバッタ(写真6)、キマダラカメムシ(写真7)、その幼虫(写真8)、ダメージを受けているチャバネアオカメムシ(写真9)、アオカナブンの死骸(写真10)をカメラに収めました。因みに、本日の歩数は11,351でした。

閑話休題、『教科書から消えた世界史――9割の日本人が知らない』(土井昭著、KADOKAWA)の著者の保守主義的思考や歴史認識は、私のそれとは大きく異なっています。

しかし、「なぜウクライナとロシアの間で戦争が起きたのか」の部分は、大変勉強になりました。それぞれの国の成り立ちが明らかにされているからです。

●現在のウクライナ周辺には以前から東スラヴ人というスラヴ系の民族の一派が居住しており、この頃にはまだウクライナ人・ロシア人という分化は起きていなかった。

●そこに北欧のスカンディナヴィア半島・ユトランド半島あたりから、ノルマン人(ヴァイキング)が移動し、そのうちリューリクに率いられたルーシと呼ばれる一派が東スラヴ人を支配して、ノヴゴロド国を建国した。このノヴゴロド国が、ロシアの起源とされる国である。

●さらにその後、リューリクの親族とされるオレーグが、ノヴゴロドから南下しキエフを中心にキエフ公国を建国した。このキエフ公国が、ウクライナの始まりとなった国である。つまり、ロシアの起源となったノヴゴロド国とウクライナの始まりとなったキエフ公国は、両国ともにノルマン人が東スラヴ人を支配して建てた国なのだ。そして、その下で、ノルマン人と東スラヴ人の混血が進んでいった。

●中世において、より強国となったのはキエフ公国のほうだった。着々と勢力を拡大させると、10世紀頃、ウラディミル1世のもとでキエフ公国は全盛期を迎えた。ウラディミル1世はビザンツ帝国との関係を重視し、その皇女と結婚、さらにビザンツ帝国と同じギリシア正教を国教化した。そして、この頃、キエフ公国は、現在のウクライナだけでなくロシアの一部をも支配するようになっていた。

●ところが、13世紀になると、チンギス=ハンの子孫であるバトゥがモンゴルから侵攻し、キエフ公国を滅ぼした。そして、バトゥはキプチャク=ハン国を建国すると、このあたり一帯を支配して、厳しい統治を行った。モンゴルによるこの支配を「タタールのくびき」と言う。

●このモンゴルの支配から先に独立を果たしたのは、ロシアのほうだった。現在のモスクワを中心にモスクワ大公国を建てると、イヴァン3世のもとでモンゴルの支配から独立を果たした。さらにその後、イヴァン4世によりモスクワ大公国は領土を拡張し、強国化していった。

●一方で、東スラヴ人居住区の西側に、リトアニア、ポーランド、ハンガリーといった周辺諸国が侵攻を始めた。中でも特に強国だったのが、ポーランドとリトアニアの連合によって成立したリトアニア=ポーランド王国(ヤゲウォ朝)だった。この国はポーランドを中心とする王国で、カトリックを信仰していた。そのため、この国が東スラヴ人居住区を支配したことで、この地にカトリックの文化が入ってきたのである。そして、この影響を受けた人々がウクライナ人となっていったのである。この頃までロシア人とウクライナ人の区別はなかったが、この段階で東スラヴ人はロシア人とウクライナ人に分化していったのである。

●ロシア人とウクライナ人はともにギリシア正教を信仰していた。そのため、カトリックの支配や弾圧を嫌ったスラヴ人の一部は、辺境のステップ地帯に逃亡した。このような人々は「自由な人」といった意味で、彼らは頭目を選挙で選び、重要事項を全員参加の集会で決めていた。そして、この勢力がポーランドに対する叛乱を起こしたのである。これが、現在のウクライナの中心勢力となる。しかし、叛乱の戦況が悪化すると、そのうちの一部はロシアに保護を求めたのである。これを受けてロシアはポーランドを撃退し、ウクライナ(より厳密にはキエフとドニエプル川の左岸)をロシアに併合した。このことは、現在のロシア寄りの見方をすれば「カトリックの支配からウクライナを解放した」と言える。また、「ロシアはウクライナに助けを求められたのでそれに応えただけ」とも言える。しかし、現在のウクライナ寄りの見方をすれば「ウクライナは異なる文化を持つロシアに支配された」ということになる。また、「ロシアへの併合を求めたのはウクライナの一部であり全体ではなかった」とも言える。

●その後、ロシアによるウクライナ支配は長らく続いた。しかし、18世紀の終わりにナポレオンが登場すると、その影響でナショナリズムがヨーロッパに広がり、ウクライナでも独立を熱望する民族主義者たちが台頭する。一方、ロシアでは、民衆を虐げるロマノフ朝を打倒し、格差のない社会主義国にしようとする勢力が台頭していた。その中心がレーニン率いるボリシェヴィキ(後の共産党)で、彼らは民衆の不満を吸収し勢力を拡大していった。そして、第一次世界大戦のために混乱が広がる中で、ロシア革命を起こしたのである。この際、レーニンたちボリシェヴィキは、目的は違えども共通の敵であるロマノフ朝を倒すため、ウクライナの民族主義者と共闘した。

●最終的にロマノフ朝打倒に成功し、レーニンを中心に社会主義の国ソヴィエト=ロシアが成立した。そして一方で、レーニンはウクライナの分離・独立を認めたのである。

●第二次世界大戦が起こると、ソ連はヒトラーのナチス=ドイツと戦うことになる。いわゆる独ソ戦の勃発である。この際に、従来からソ連の支配に反撥していたウクライナ人の一部は、ナチス=ドイツに協力し、志願してドイツ軍としてソ連軍と戦ったのである。ただ、この戦争によるウクライナの被害は非常に大きく、結局、ナチス=ドイツによってウクライナ全土は一挙に占領され、徹底的に破壊され、掠奪され、500万人以上が犠牲になった。

おかげで、ウラジーミル・プーチンの「ロシア人とウクライナ人は一つの民族だ」、「ウクライナはロシア発祥の地だ」、「ウォロディミル・ゼンンスキーはネオ・ナチだ」といった発言の背景を理解することができました。