古墳時代~奈良時代の古墳の被葬者は誰か・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1640)】
我が家に強力な助っ人がやって来ました。情熱的読書人間として、「未知との出会いをもたらしてくれる本を読む」、「その本の素晴らしさを伝える書評を書く」、「季節の移ろいの一端を捉えた写真を撮る」、「1日10,000歩以上歩く」生活を送っている私にとって、パソコンは欠くことのできないパートナーです。今日、馳せ参じてくれたNECのLAVIE Note NEXTのNX850/NABの①飛躍的なアクセス速度、②15.6型ワイドというラップトップとしては十分なディスプレイ、③迫力ある高音質――に惚れ込んでしまいました。家にいる時は一日中、パソコンの前にいて、私との会話を疎かにしていると、常々、不満を口にしている女房の視線が、ますます気になりそうです。因みに、本日の歩数は10,903でした。
閑話休題、古墳の被葬者が誰かということに関心がある私にとって、『検証 奈良の古代遺跡――古墳・王宮の謎をさぐる』(小笠原好彦著、吉川弘文館)は、見逃すことのできない著作です。
「奈良県は大和政権が出現した地であり、その後も飛鳥・奈良時代まで古代国家の政治・経済・文化の中心地だった。それだけに、奈良県の各地には大型古墳はもとより宮殿・都城(とじょう)跡、古代寺院跡など、多くのよく知られた古代遺跡が残っている」。
「本書では、奈良県の各地に残る古墳時代から飛鳥時代の主要な古墳、王宮跡、注目すべき遺跡を取りあげた。そして、これまで明らかになっている研究成果を詳細に紹介するとともに、それらの成果を著者の視点から捉えなおし『日本書紀』『万葉集』などに関連記事を求め、その背後に展開した歴史を叙述したものである」。
「島の山古墳――多量の石製腕飾類が配された被葬者」の「前方部にみる他に例のない多くの石製腕飾類の供献は、これまで伝説的な人物とみなされている神功皇后が実在した可能性がきわめて高くなったものと思われる。そして、『帝紀』には神功皇后が記されており、応神天皇の母として実在したものとみなされるのである。そして、このことは、現代の歴史学は、『古事記』の序文に記すように、皇統譜、系図を主とする『帝紀』に記された神功皇后と、物語や伝承を収録した『本辞』『旧辞』によって記された神功皇后とは、明確に区別して扱うべきことを示している」。
「石舞台古墳――巨石で築造した大型の横穴式石室」の「報告書では、断定する資料がないことから確定しえないとしながら、蘇我馬子の墓とする考えが最も有力な仮説としたのである。この仮説は、その後も特に異論がだされることなく今日に至っているといってよいであろう」。
「束明神古墳――横口式石槨の八角墳」は「(発掘調査した河上邦彦氏が)天智陵、天武・持統陵、さらに文武陵の可能性が高い中尾山古墳と同様に、八角形の墳形をなし、凝灰岩切石による横口式石槨の規模からみて、また古く佐田集落に伝えられてきた伝承も踏まえ、草壁皇子の墓の可能性がきわめて高いものとした。日本の古代に築造された古墳では、中国古代の墳墓と異なり、古墳に墓誌や文字資料をふくむことがほとんどない。このことは、古代の古墳、墳墓では、被葬者名を確定することがきわめて難しいことからみても、きわめて重要な知見をえたことになる」。
「キトラ古墳――壁面に四神を描く横口式石槨」の被葬者は「結果としては消去法となったが、文武3(699)年7月21日に没した弓削皇子が、これまであげられている候補では、最も可能性が高いものと考える」。
「高松塚古墳――壁面に宮廷人・四神を描く横口式石槨」の被葬者候補は「慶雲2(705)年に没した忍壁皇子のみが残ることになる。忍壁皇子とすると、遺存した人骨や歯牙から壮年以上の年齢の男性とする条件とも矛盾しないことになる」。
「中尾山古墳――火葬墓の八角墳」は「天智陵、天武・持統陵と同様に八角形をなし、火葬を行った後に横口式石槨に蔵骨器が安置されている。また、藤原京の中軸線上に造られている。しかも中尾山古墳は、天武・持統陵のすぐ南の丘陵に築造されているという位置をより重視する必要がある。いわば、中尾山古墳の地は、天武直系の天皇陵を築造する予定地とされていたものと推測される。これだけ条件が揃うことからすると、中尾山古墳は文武陵とみなして間違いないものである」。
「694(持統8)年、持統天皇は、天武天皇の意向を継承し、飛鳥の北に、初めて中国的な条坊をもつ藤原宮・京を造営した。持統は(孫の)文武天皇(=軽皇子)に皇位を譲るまでに、吉野宮の離宮に31回も謎の行幸を重ねている」。「持統は軽皇子へ皇位を譲るために、吉野宮で湧出した温泉の湯に浸かりながら、禊の神事を重ねて心身をリフレッシュし続けたことが想定されるのである。・・・文武の即位によって、持統の吉野宮への行幸は、実質的に終焉を迎えたことが、温泉とかかわったことをよく物語っているように思われる」。持統は10余年に亘り、自らの健康を維持する必要があったのです。
著者の見解は実証的なので、強い説得力があります。