世阿弥はマーケティングの天才だった・・・【山椒読書論(145)】
『処世術は世阿弥に学べ!』(土屋恵一郎著、岩波アクティブ新書。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)では、あの能の大成者・世阿弥がマーケティングの天才として、現代に甦ってくる。
世阿弥は、一般に受け止められているような風雅な芸能者ではなく、勝つか負けるか、生きるか死ぬかを懸けて激烈な人生を送った「戦う人」であった。このことは、世阿弥のローラー・コースターのような浮き沈みの一生を知れば、納得がいくだろう。
『風姿花伝』(世阿弥著、岩波文庫)の校訂者・西尾実によれば、父・観阿弥と子・世阿弥によって大成された能は、新興武家貴族をパトロンとして発達したものであった。従って、時の将軍との関係で、その社会的な位置と運命が決せられていた。世阿弥45歳までの第1期は、足利義満の絶大な保護を受けた時期で、その年の3月には北山で天覧能を演じている。65歳までの第2期は、足利義持から徐々に疎外されていった時期である。この時期に、世阿弥は長男・元雅、次男・元能、甥・元重の薫陶に力を入れ、『花鏡』など10余部に及ぶ伝書を書くことに全力を傾けている。80歳までの第3期は、足利義教によって弾圧され、71歳の時には佐渡に配流されている。
「世阿弥の時代には、能は『立合(たちあい)』という形式でその芸を競った。何人かの役者が同じ日の同じ舞台で、能を上演して、その勝負を競ったのだ。それは勝負ごとであった。その勝負に負ければ、評価は下がり、パトロンは逃げる。実にきびしい世界であった。その勝負の時のうちに、勢いの波がある。こっちに勢いがあるなと思える時と、むこうに勢いがいっていると思える時がある。世阿弥は、このこっちに勢いがあるなと思える時を、『男時(おどき)』といい、むこうに勢いがいっていると思える時を、『女時(めどき)』と呼んだのだ。・・・ライバルの勢いが強くてどうも押されているな、と思う時は、小さな勝負ではあまり力を入れず、そんなところでは負けても気にすることなく、大きな勝負に備えよ。『男時』がめぐってくるのを待って、そこで得意の芸を出し、一挙に勝ちにいくのだ。それが世阿弥の教えであった」というように、著者の説明は非常に理解し易い。私も、自分の人生を振り返って、勝負はもちろん、人生もメリハリだと考えている。
「誰も想像していなかったことをやって、相手を圧倒してしまうことである。世阿弥にとっては、芸の本質にかかわることであった。勝負の根本にかかわることであった。一つぐらいは誰も知らない、自分の芸の秘密をもっていることを、世阿弥は求めた。秘伝である。しかし、そうした秘伝もいったん使ってしまえば、秘密でもなんでもなくなる。だから、むしろ使うことをひかえながら、いざという時の技とするのだ。それが『秘すれば花』という意味である」。