榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

社会科学史上の結節点の人物を独自の方法で読み解いた名著・・・【山椒読書論(292)】

【amazon 『社会認識の歩み』 カスタマーレビュー 2013年10月10日】 山椒読書論(292)

若い時分に強い刺激を受けた『社会認識の歩み』(内田義彦著、岩波新書)がなぜか気になり、書棚から引っ張り出して読み返してみた。

著者がマルクスに傾倒している点を別にすれば、これはやはり名著である。

マルクスの社会主義に至る社会科学史上の結節点に位置するキーパースンとして、マキャヴェリ、ホッブス、ルソー、スミスの4人を取り上げている。この4人の知的遺産を読み解く著者の方法がユニークで、何とも魅力的なのだ。

例えば、マキャヴェリについては、「彼の『君主論』はいったい何か。それは君主について述べたのか、あるいは人間の君主的側面を書いたのか、むずかしいところですが、そういうことはいっさい抜きにして、いきなり本を読みます」と始めている。

「マキャヴェリが書くのは、直接には、君主たるものが政治をするための忠告ですが、同時に、普通の人間への忠告でもある。人間がそのなかに生きている環境の、リアルな把握による環境の操作ということです。それをマキャヴェリは、ヴィルトゥとフォルトゥナという伝来の考え方を加工しながら説明します。フォルトゥナ、運命というのは、人間の外にあって、あるいは彼を助け、あるいは彼に襲いかかってくる、そういうものです。人間はつねに運命に包み込まれていて、その外に出ることは絶対にできません。ヴィルトゥというのは、徳、ヴァーチャーと訳すとなんかこう温厚な人柄を指すように聞こえてまずいんですが、そうではなくて、幸運をすばやく受け取る、あるいは襲いかかってくる運命を投げ飛ばし投げ飛ばし操作する、そういう主体の働きであります」と、核心に小気味よく切り込んでいく。

「運にまかせてもだめ。主観的にふるまってもだめ。運を知って運を操作する。しかも先手を打って操作する。ここが重要で、『先手を打つ』という言葉に、先手を打てるような深い洞察と、なによりもその上に立った賭けというものがヴィルトゥの内容として理解されているわけであります。次の言葉をそのように読むと、よくわかります。『私は、用意周到であるよりはむしろ果断に進むほうがよいと考えている。なぜなら、運命の神は女神であるから、彼女を征服しようとすれば、うちのめしたり、突きとばしたりすることが必要である。運命は、冷静な行き方をする者より、こんな人たちに従順になるようである』」。何と的を射た解説ではないか。

因みに、マキャヴェリは、こうも言っている。「君主は、たとえ愛されなくても、人から恨みを受けないようにして、恐れられる存在にならなければならない。つまり、恐れられることと、恨みを買わないこととは、りっぱに両立しうるのである」。

私は、マルクスの社会主義も、レーニンの社会主義も、毛沢東の社会主義も認めない立場だが、この本の素晴らしさは認めざるを得ない。