榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

文学作品『おくのほそ道』に事実という照明を当てたら・・・【山椒読書論(327)】

【amazon 『「曽良旅日記」を読む』 カスタマーレビュー 2013年12月7日】 山椒読書論(327)

曽良旅日記」を読む――もうひとつの「おくのほそ道』(金森敦子著、法政大学出版局)は、文学作品『おくのほそ道』に事実という照明を当てた興味深い一冊である。

「芭蕉にとっては、はじめての東国への旅になる。そこに何が待ちうけているのか、その不安と期待感が『野心(のごころ)』という一語にあらわれている。街道は十分には整備されておらず、道なき道を歩むことになるかもしれない。おそらく困難な旅になるにちがいない。しかし、旅の苦痛を味わってこそ、能因や西行の旅に近づけるというものだ」。

この旅のお供に選ばれたのが、曽良(そら)である。「こうして芭蕉と曽良の旅がはじまる。芭蕉の『おくのほそ道』は文学作品だから事実をそのまま書いたものではない。『おくのほそ道』は紀行文というより、独立した俳文を道順に並べたものといってもいい。だから文飾があるし、文章を調えるために意識して事実を曲げている部分もある。長い旅だったから単なる勘違いもある。文学作品だから文飾は当然のことで、虚と実のあわいがより効果を高めて、『おくのほそ道』が紀行文学、あるいは俳文学の最高峰であることは誰もが認めるところである」。

立石寺で詠んだ「閑(しづか)さや岩にしみ入(いる)蝉の声」について、著者はこう記している。「立石寺は参拝客もなく、寺坊も扉を閉めて人影もない。森閑とした中で聞こえるのは蝉の鳴き声だけである。芭蕉が立石寺で作ったのは、『山寺や石にしみつく蝉の声』(曽良がこう書き留めている)だが、その後『淋しさの岩にしみ込むせみの声』、『さびしさや岩にしみ込蝉のこゑ』、『閑さや岩に染み付く蝉の声』となり、結局は『閑さや岩にしみ入蝉の声』に落ち着いた。山寺という地名をはずして『淋しさ』に、またそれを『閑さ』に直し、数度の推敲を重ねている」。芭蕉ほどの達人にして、これほど推敲を重ねたのか、また、芭蕉だからこそ、これほどの努力を厭わなかったのか――いずれにしても、『おくのほそ道』の魅力の秘密を垣間見ることができる。

柏崎では、芭蕉が珍しく立腹している。いったい何があったというのか。「7月5日、この日、腹立たしいことが起った。千住を出発して大垣から伊勢へ旅立つまでの『おくのほそ道』156日間のうちで、芭蕉が怒り心頭に発したのはこの日だけである」。「いつも物静かな芭蕉が、怒りをこのようにあらわにしたのは生涯でもそうなかったはずである」。ある弟子が書いてくれていた紹介状を持って訪ねた宿泊予定先からけんもほろろに断られたのである。

「『おくのほそ道』には市振での一夜が印象深く記されている」。「一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月」と詠った時のことである。著者は、「ここに書かれた遊女のエピソードは事実なのだろうか」と、疑問を呈している。なぜなら、曽良がこの句はもちろん、この逸話については何も記していないからである。「(芭蕉が)『おくのほそ道』の草稿を書き上げてから、艶やかでしかも人生の哀歓がにじむような部分がないことに気づき、この遊女の逸話が新しく付け加えられたと推測される」。

この本を読まなくとも、『おくのほそ道』を鑑賞することはできる。しかし、本書を踏まえた上で、『おくのほそ道』を再読したら、一層、その味わいが深まることだろう。