榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

国宝神護寺三像の源頼朝像は足利直義像、平重盛像は足利尊氏像であったことが証明された・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2836)】

【読書クラブ 本好きですか? 2023年1月21日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2836)

強い風にも拘わらず、我が家の庭の餌台「空中楽園」、「カラの斜塔」にやって来るメジロ(写真1~7、9)、シジュウカラ(写真7、8)、スズメ(写真9、10)たちは採餌に夢中です。

閑話休題、米倉迪夫によって、国宝神護寺三像の源頼朝像とされてきたものは足利直義像、平重盛像とされてきたものは足利尊氏像、藤原光能像とされてきたものは足利義詮像だという衝撃的な指摘がなされたことは、27年前に『源頼朝像――沈黙の肖像画』(米倉迪夫著、平凡社)を読み、知っていました。この問題は解決済みと思い込んでいた私は、読書仲間の只野健の『国宝神護寺三像とは何か』(黒田日出男著、角川選書)の書評に接し、愕然としました。黒田日出男が米倉説を発展させていたことを知ったからです。

「当初から私は、この米倉説が正鵠を射ていると考え、一貫して応援してきた。ただし、同一の見解(理解)ではない。米倉が美術史家であるのに対し、私は日本史家であって、『史料』として絵画を読み解いている絵画史料論者だからだ。彼と私とでは、問題への肉薄の仕方、解決へのアプローチが大いに異なっている。私は、彼とは違ったアプローチで神護寺三像の解明を試みてきた。ただし、米倉の仮説のたんなる追認であるなら、一冊の本にする必要はない。本署のような一冊の本となったのは、私の絵画史料論的アプローチが米倉の美術史的なそれとは大いに異なり、しかも神護寺三像の秘密に迫ることができた(と私は考える)からである」。

「神護寺三像は南北朝時代中期に日元交通によってもたらされた広幅の絵絹に描かれた作品なのである」。このことは、三像が制作された時期が特定されたことを意味します。

「神護寺三像の『大きさ』と『かたち』に一番近い、親縁性の高い肖像画は、一群の弘法大師像や真言八祖像であるというのが、本章での結論である。神護寺三像は弘法大師像の『大きさ』と『かたち』を見倣った可能性がある、と私は考える」。このことは、三像がなぜこれほど大型なのかを説明しています。

米倉が再発見した「足利直義願文」は「足利家の永続と信仰の継承を願うものであったことは確かであろう。そうした祈願をこめて、自分と兄の『対』の肖像を神護寺のしかるべき堂に安置したのである。すなわち、足利家(と幕府)の永続を願う直義の祈願を体現していたのが尊氏・直義両像であり、二人が並び立って初期幕府の『政治』を行い続けようとする直義の政治意思の表現(表象)であったととらえるべきなのだ。無論、この康永4年4月23日の時点では、直義はまだ自らの『政治』に自信をもっていたし、二頭政治は維持できると思っていたはずだ。しかし同時に、怜悧な直義は、『危機』が忍び寄ってきていることを十分に意識していたに相違ない。神護寺への直義による願文の作成・奉納と両像の安置は、そうした『危機』への対応・対処の一つだったのであろう。そう私は考えるのである。・・・それは絶頂期の肖像であると同時に、兄弟の仲を引き裂き、両頭体制を揺るがせかねない状態にまで深まってきた『危機』への対応という面をあわせもっている肖像なのである」。黒田はこのように、南北朝時代の武将・足利直義(当時39歳)が、なぜ自らの肖像と兄・尊氏(当時40歳)の肖像を対にして神護寺に安置したのか、その背景を明らかにしています。

これほど強い説得力を備えた、読み応えのある著作を見逃さずに済んだのは、よき読書仲間のおかげと、心より感謝しています。