私に小説の魅力を教えてくれた新田次郎・・・【山椒読書論(201)】
私にとって、新田次郎という作家は特別な存在である。子供向けの本に夢中だった私が中学2年の時、出会った小説が新田の『風の中の瞳』(新田次郎著、講談社文庫。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)であった。東京都西部郊外の住宅地の市立中学を舞台に、3年の男女生徒たちが高校受験や恋愛感情で悩んだり、友情を確かめ合ったりして成長していく姿が描かれている。自分も彼らのクラスメイトになったような気持ちになり、何度も何度も読み返した。小説の魅力に目覚めた私の読書世界は、これを契機として大きく広がっていったのである。
『小説に書けなかった自伝』(新田次郎著、新潮文庫)は、新田の小説修業の記録である。
処女作の頃のことが、「小説を書くようになった動機はなにかとよく訊ねられる。それに対して私は、妻(藤原てい)が『流れる星は生きている』(藤原てい著、中公文庫)を書き、それがベストセラーになったのに刺戟されて、おれもひとつやってみようかということになり、初めて書いたのが『強力(ごうりき)伝』(5年後に直木賞受賞)で、それ以後小説から足を抜くことができなくなったと判で押したように答えている」と述べられている。
私の一番知りたい『風の中の瞳』執筆の背景は、こう記されている。「昭和三十二年に年が変って早々、学習研究社の『中学三年コース』に連載小説を書かないかという話が持ちこまれた。・・・私は、『超成層圏の秘密』以来少年小説に強い興味を持っていた。・・・『中学三年コース』へ連載した小説の題名は『季節風』だった。このころ私の長男が中学から高校へ、次男が小学校から中学校へと移った時代だったので、中学校の話を身近に聞くことができた。この小説は連載を始めて以来ずっと好評だったようだ。桐原編集長がアンケートの資料や読者の投書などを持って来て、知らせてくれた。私には意外だった。・・・一ヵ年連載して、翌年、(『風の中の瞳』と改題されて)東都書房から出版された。・・・この本はよく売れた。映画にもなったし、小説の中の一章が、国語の教科書に載ったりした。今になっても、地方の講演会などで、『風の中の瞳』を読んで以来、あなたのファンになりましたと云ってくれる人がある。・・・父が云った。<小説が嫌いな婆さん(この連載中に亡くなった新田の母のこと)も、『季節風』だけは面白がって読んでいた>」。
「私の勤務先から神田の古書店街までは歩いて十分ほどのところだから、昼休み時間の古本探しにはまことに好都合だった。持って行った大風呂敷を一杯にして帰ることがあった」。
直木賞受賞後も、「私は、この頃になってもまだ小説家としての確信のようなものが持てず、この世界から突然消えて行く自分の姿におびえていた」。
しっかり者の妻について、「家に帰って妻に相談した。妻は思い切って役所(中央気象台、後に気象庁)を辞め、文筆一筋に生きるべきだと云った。常々しっかりしている女だと思ったが、これほどはっきり云われると、もはやなにも云うことはなかった」という記述もある。
「彼(編集者)は急に語尾を丁寧にして私の顔をじろっと見た。まさしく私は人気作家ではなかった。売れない作家、役人作家、山岳小説家、女が書けない作家等いろいろのことを云われて来たが、つくづく考えてみると、この編集者の云うことはそっくりそのまま私に通用することで、ただもうお説ごもっともとその言葉をありがたく頂戴するしかなかった」。
もう一つの、私の大好きな新田作品『八甲田山死の彷徨』(新田次郎著、新潮文庫)については、こう述懐している。「私は長篇書きおろし小説を書きたかった。それを書いて私自身の評価を問うてみたかった。そういう年齢になっていた」。
「昭和四十七年の春、次男の(藤原)正彦(後に『国家の品格』<藤原正彦著、新潮新書>を執筆)は、アメリカの大学で数学の教鞭を執るため単身羽田を発った」。
新田次郎というのは不器用と言ってもいいほど、真面目で誠実な人であった。役人と作家の二足の草鞋に悩んだ人であった。作家としての幅を広げようと地道な努力を続けた人であった。ますます新田次郎が好きになってしまった。