『忘れられた日本人』がこんなに面白いとは・・・【情熱の本箱(17)】
宮本常一という民俗学者の名は以前から耳にしていたが、『忘れられた日本人』(宮本常一著、岩波文庫)がこんなに面白い本とは知らなかった。自分の不明を恥じている。
1939(昭和14)年以来、日本全国を隈なく歩き、各地の民間伝承を克明に調査した成果が本書に凝縮している。著者は、話を聞かせてくれた古老たちを、その地方の文化を築き、支えてきた伝承者と位置づけている。
どの話も興味深いが、女性にまつわる話にスポットを当ててみよう。
対馬では――「対馬には島内に六つの霊験あらたかな観音さまがあり、六観音まいりといって、それをまわる風が中世の終り頃から盛んになった。男も女も群れになって巡拝した。佐護にも観音堂があって、巡拝者の群れが来て民家にとまった。すると村の若い者たちが宿へいって巡拝者たちと歌のかけあいをするのである。節のよさ文句のうまさで勝敗をあらそうが、最後にはいろいろのものを賭けて争う。すると男は女にそのからだをかけさせる。・・・鈴木老人はそうした女たちと歌合戦をしてまけたことはなかった。そして巡拝に来たこれというような美しい女のほとんどと契りを結んだという」。羨ましい限りである。
愛知の名倉では――「夜ばいもこの頃はうわさもきかん。はァ、わしら若い時はええ娘があるときいたらどこまでもいきましたのう。美濃の恵那郡の方まで行きましたで・・・。さァ、三、四里はありましょう。夕はんをすまして山坂こえて行きますのじゃ、ほんとに御苦労なことで・・・。女の家へしのびこうで、まごまごしていると途中で夜があけたもんです。すきな娘があったかって? そりゃすきな娘がなきゃァ通わないが、なァに近所の娘とあそぶだけではつまらんので・・・。無鉄砲なことがしてみたいので」。「はァ、女と仲ようなるのは何でもない事で、通りあわせて娘に声をかけて、冗談の二つ三つも言うて、相手がうけ答えをすれば気のある証拠で、夜になれば押しかけていけばよい。こばむもんではありません。親のやかましい家ならこっそりはいればよい」。女のほうも万事心得ていたのである。
山口の平野では――「女たちのこうした話は田植の時にとくに多い。田植歌の中にもセックスをうたったものがまた多かった。作物の生産と、人間の生殖を連想する風は昔からあった。正月の初田植の行事に性的な仕草をともなうものがきわめて多いが、田植の時のエロばなしはそうした行事の残存とも見られるのである。そして田植の時などに、その話の中心になるのは大てい元気のよい四十前後の女である。若い女たちにはいささかつよすぎるようだが話そのものは健康である。早乙女の中に若い娘のいるときは話が初夜の事になる場合が多い。・・・こうした話を通して男への批判力を獲得したのである。エロ話の上手な女の多くが愛夫家であるのもおもしろい。女たちのエロばなしの明るい世界は女たちが幸福である事を意味している。女たちのはなしをきいていてエロ話がいけないのではなく、エロ話をゆがめている何ものかがいけないのだとしみじみ思うのである」。宮本常一の面目躍如である。
高知の寺川では――「昔の若い者は大きな山を一つ越えた南の樅の木山あたりまでヨバイに行ったと申します。一里の上、二里もありましょうか。そんな所にまで、いい女があれば夜道を遠しとせず、タイマツをとぼしてあるいていきました」。その心意気やよし。
大阪の滝畑では――「それまで、このあたりには一年に一度だけすきなことをしてよい日があった。同じ南河内郡磯城村の上の太子の会式(えしき)である。上の太子というのは聖徳太子の御廟のある所である。ここに旧四月二十二日に会式があって、この夜は男女共に誰と寝てもよかった。そこでこの近辺の人は太子の一夜ぼぼと言ってずいぶんたくさんの人が出かけた」。これには聖徳太子もびっくりしたことだろう。
「これらの文章ははじめ、伝承者としての老人の姿を描いて見たいと思って書きはじめたのであるが、途中から、いま老人になっている人々が、その若い時代にどのような環境の中をどのように生きて来たかを描いて見ようと思うようになった。それは単なる回顧としてでなく、現在につながる問題として、老人たちのはたして来た役割を考えて見たくなったからである」と、著者が語っている。網野善彦が指摘しているように、柳田国男、折口信夫、和歌森太郎などに代表される「民俗学に抗して、泥にまみれた庶民の生活そのものの中に、人の生きる明るさ、たくましさをとらえようとする」個性的な民俗学への道を、宮本は独り歩んでいったのである。