曹操の歴史的役割を認め、諸葛孔明の虚像を暴いた本・・・【情熱の本箱(68)】
『三国志演義』は虚構の塊であり、歴史書の『三国志』には史実そのものが記されているという私の思い込みは、『三国志――演義から正史へ、そして史実へ』(渡邉義浩著、中公新書)によって見事に粉砕されてしまった。
「『三国志』は、3世紀の中国を舞台とする。4百年続いた漢の実権を掌握した曹操、漢を守ろうとする劉備、赤壁の戦いで曹操を破る主力となった孫権が、それぞれ基礎を創った曹魏・蜀漢・孫呉の三国が争いあった時代である。卑弥呼の邪馬台国が記録される『魏志倭人伝』を含む陳寿の『三国志』という歴史書に記録された時代であるが、日本では、卑弥呼と『三国志』が同時代である、という説明に驚く人も多い。物語として親しんでいる『三国志』の司馬懿の遼東遠征を機に、日本史で習う卑弥呼が使者を出していることが意外なようである」。
「(日本における『三国志』人気が)基本としているものは『(三国志)演義』であり、三国時代の史実とは大きく異なる。先の見えない今日を生きるわれわれの規範として、乱世に挑んだ三国時代の人々の真実の姿を『演義』の虚像に求めることはできまい」。全く、同感である。
「しかし、陳寿の『三国志』を読めば、三国時代の史実を理解できるわけでもない。陳寿の『三国志』は正史と呼ばれるが、正史はしばしば誤解されるように、『正しい歴史』を記録したものではなく、史書を編纂した国家にとって『正統な歴史』を描いたものだからである」というのだ。
それでは、陳寿が置かれていた環境・立場とは、いかなるものだったのか。「曹魏を滅ぼして建国された西晉(265~316年)の史官であった陳寿は、曹魏から西晉への革命(権力奪取)が正統であることを示すため、三国の中で曹魏を正統とし、蜀漢・孫呉を曹魏の臣下として扱う必要があった。また、(曹魏から権力を奪取し)西晉を建国する(臣下の)司馬氏に対して、曹魏を守るために戦った諸葛誕や毌丘倹を、曹魏の臣下でありながら、忠臣として記述しない。陳寿が著したものは、曹魏の正史ではあるが、あくまで西晉の正統を示すための曹魏の正史であるために、曹魏に忠誠を尽くして西晉と戦った者は、悪く書かれるのである」。
さらに、『三国志』には、陳寿の別の動機も隠されていたのである。「旧蜀臣であった陳寿は、蜀という地域とその歴史を愛していた。旧敵国である、もと蜀漢の臣下たちは、西晉において不遇であった。陳寿は、蜀漢を代表する宰相として諸葛亮(孔明)の忠義を強調し、諸葛亮と劉備との関係を関羽・張飛とのそれ以上に密接に描こうとした。・・・『演義』に虚構が含まれるように、『三国志』の記述にも、陳寿が生きた西晉という国家のための、そして著者である陳寿の考えに基づく偏向が存在するのである」。こうして、私の思い込みは根拠を失ったのである。
その上、『三国志』には、重要な意味を持つ注釈書が存在したのである。「陳寿の『三国志』は、同時代史であった。そのため、差し障りがあって書けないことも多く、また内容が簡略に過ぎた。・・・そこで、裴松之は、陳寿が採用しなかった三国時代に関する史料を集め、注として付け加えた。元嘉6(429)年に完成した裴注(裴松之の注)である。裴松之は、注をつけるにあたって、『三国志』の原材料ともなった多くの書物を引用して『三国志』の記述を補う、という方法を採った。このため裴注には、実に210種にも及ぶ当時の文献が、確実な史料批判とともに引用されており、『三国志』は裴注を得て、その価値を飛躍的に高めた。・・・裴注は、史学史上の価値が高いだけではない。『演義』の形成においても豊富な材料を提供した」。このことは、史実に迫ろうとするときは、『三国志』と裴松之の注をセットにして考察しなければならないことを示している。
『三国志演義』に関しても、本書に教えられたことが多い。「『演義』は、もともとは明の(戯曲・小説作家の)羅貫中によってまとめられた。・・・(時代を経て)小説が大量に印刷されるようになり、多くの版元による出版競争が始まった。その結果、様々な内容を含む『演義』が出版された。・・・『演義』の決定版となっていく毛宗崗本は、嘉靖本の流れを汲む李卓吾本を底本としている」。
「『演義』では、敵役とされた曹魏、道化とされた孫呉の人々は、おおむね扱いが粗雑である」。「(中国人にとって)『演義』は『滅びの美学』を描いた文学である。漢の正統を引く劉備が建国し、神(関聖帝君)となった関羽、庶民に大人気の張飛、知識人がその忠義を仰ぐ諸葛亮が支えた蜀漢の敗北を描く物語なのである。正義の陣営がこれだけ整うと、敵役がしっかりしなければ締まりがなくなる。敵役として存分の悪知恵を働かせ、かつ人間としての魅力を溢れさせる稀代の悪役、それが曹操である」。このように、本当は時代を超越した改革者ともいうべき歴史上の人物である曹操の実像を歪め、悪辣非道な悪役・敵役に仕立て上げている点――これこそ、私が『演義』を嫌う最大の理由である。
「三国はいずれも勝者ではない。曹魏も蜀漢も孫呉も天下を統一することはなかった。統一した西晉もまた、匈奴に敗れた。『三国志』を『滅びの美学』に描く『演義』は、『分かれること久しければ必ず合し、合すること久しければ必ず分かれる』との循環論的な歴史観を冒頭に掲げ、その悲劇を美学に昇華している。その滅びの美学を日本人は愛した。判官贔屓のお国柄がよく現れていると言えよう。中国史全体の中に三国時代を位置づけてみると、『漢』の規制力の強さと曹魏の果断さに改めて気がつく。蜀漢が『漢』の正統を継承する国家であっただけではない。・・・名士(知識人層)の基盤である文化的価値の中核にも、『漢』を正統とする儒教が置かれていた。その漢を乗り越えた曹魏は、果断であった。決断力に長ける曹操ですら、漢の正統性の前ではたじろぎ、自らは革命(権力奪取)を行い得なかった。しかし、曹操は、息子の曹丕が魏を建国し得る正統性と国力を着実に準備していった。なかでも、漢と密接に結びついた儒教の価値を相対化するため、『文学』という新たな文化的価値を宣揚した先見性は、高く評価されよう。また、隋唐統一帝国の基本となった均田制・租庸調制という土地・税制度も、曹操のそれを継承したものである。分裂に向かう中国を押し止めたもの、それが曹操なのである」。この著者の曹操論は、曹操の歴史的役割に正当な光を当てており、秀逸である。
ただし、「中国の古典古代である『漢』を守ろうとした劉備や諸葛亮は、高く評価され続けた」という一節は、残念ながら肯定できない。強かな劉備が、自分の「劉」という姓が人々に漢の皇室の末裔と思わせる効果を狙って、「漢の再興」という旗印・大義名分を掲げたに過ぎない、というのが私の見解だからである。
諸葛亮を必要以上に持ち上げて、思うがままに脚色を施している点も、私が『演義』を好きになれない理由の一つである。「『演義』の前半の主役が曹操と関羽であるならば、後半の主役は『智絶』諸葛亮である。『三国志』の物語において諸葛亮は、神とも見紛う活躍を見せる。・・・史実の諸葛亮は、常識人である。人が驚くような奇策を思いつくタイプではない。・・・諸葛亮の学問は、儒教を根底とする。『演義』で使う道術の基本である道教を学んだわけではない」。
『演義』における、宰相にして大軍師の諸葛亮の、各所で展開されるさまざまな神算鬼謀の兵法は荒唐無稽である。これに止まらず、劉備と諸葛亮の君臣関係は本当は微妙であったのに、『演義』の表現は綺麗事過ぎると、著者が鋭く指摘している。「唯一、勝機があった第一次北伐の敗戦の原因は、諸葛亮による馬謖の抜擢にある。劉備は臨終の折、諸葛亮に『馬謖はいつも実力以上のことを口にしている。重く用いることはできない。君もその点を十分に考えるとよい』と忠告していた。それにも拘らず、諸葛亮が馬謖を重用したのは、劉備とのせめぎあいの影響である。諸葛亮とそりの合わない法正を寵用して亮を牽制する劉備に対して、亮は馬謖だけではなく、劉巴・李厳・蔣琬・費禕といった荊州名士を自らの政治基盤として次々と抜擢していた。だからこそ諸葛亮は、『泣いて馬謖を斬』らざるをえなかった。荊州名士の馬謖の失敗を諸葛亮が庇えば、益州の反発を招き、蜀漢を瓦解させかねな」かったからである。
新時代を切り開くという志を高く掲げ奮闘した曹操、同時代人とは比ぶべくもなくスケールが大きい人物・曹操の歴史的役割が正当に評価されている本書は、熱烈な諸葛孔明ファンには甚だ申し訳ないが、私の愛読書の一冊となったのである。