70年が経過した現在も、「敗戦」が続いているとはどういうことか・・・【情熱の本箱(72)】
太平洋戦争で敗北した日本であるが、70年が経過した現在も「敗戦」が続いていると主張する若者が現れ、正直言って、驚いた。どういう根拠に基づく主張なのかを知るために『永続敗戦論――戦後日本の核心』(白井聡著、太田出版)を読んで、驚きは何百倍も強まった。目の付け所が秀逸で、主張を支える論理の骨格がしっかりしていて、その上、表現は学術的厳密さを備えているのだから、まさに鬼に金棒である。戦後に登場した論考の中で最高レヴェルのものの一つと言って差し支えないだろう。政治信条が右翼であろうと左翼であろうと、そのどちらにも与しない人々であろうと、今後は、本書を読まずして戦後の政治・社会を論じることは許されないだろう。ジャン・ジャック・ルソーが41歳の時に書き上げ、フランス革命の理論的支柱となった『人間不平等起源論』を想起させる力作である。
著者は、福島第一原発の事故以後の状況について、こう述べている。「われわれのうちの多くが、『あの戦争』に突っ込んでいったかつての日本の姿に現在を重ね合わせてみたことだろう。大言壮語、『不都合な真実』の隠蔽、根拠なき楽観、自己保身、阿諛追従、批判的合理精神の欠如、権威と『空気』への盲従、そして何よりも、他者に対して平然と究極の犠牲を強要しておきながらその落とし前をつけない、いや正確には、落とし前をつけなければならないという感覚がそもそも不在である、というメンタリティ・・・。これらはいまから約70年前、300万にのぼる国民の生命を奪った。しかもそれは、権力を持つ者たち個人の資質に帰せられる問題ではなかった。つまり、偶発的なものではなかった。・・・笠井潔は、太平洋戦争の経緯を概括した上で次のように述べている。<一目瞭然といわざるをえないのは、戦争指導層の妄想的な自己過信と空想的な判断、裏づけのない希望的観測、無責任な不決断と混迷、その場しのぎの泥縄式方針の乱発、などなどだろう。これらのすべてが、2011年の福島原発事故で克明に再現されている>」。全く同感である。
著者が本書で目指しているのは、「『戦後』を認識の上で終わらせることである。・・・われわれは、『戦後』の概念を底の底まで見通すことによって、それを終わらせなければならない歴史的瞬間に立っている。・・・私は、われわれが歴史を認識する際の概念的枠組み、すなわち『戦後』という概念の吟味と内容変更を提案する。(東日本大)震災以後、疑いなくわれわれは、『戦後の終焉』に立ち会っているが、天変地異が自動的にひとつの時代を終わらせるわけではない。かくも長きにわたってわれわれの認識と感覚を拘束してきたという意味で、『戦後』とはひとつの牢獄であったのだとすれば、それを破るには、自覚的で知的な努力が必要とされる。そしてそれが果たされるとき、われわれはこの国の現実において何を否定し、何を拒否しなければならないのかについて、明確なヴィジョンを得ることになるであろう」。
そもそも「永続敗戦」とは何なのか。「ここに浮かび上がるのは、敗戦による罰を二重三重に逃れてきた戦後日本の姿である。実行されなかった本土決戦、第一次世界大戦におけるドイツに対する戦後処理の失敗の反省の上に立った寛大な賠償、一部の軍部指導者に限られた戦争責任追及、比較的速やかな経済再建とそれに引き続いた驚異的な成長、かつての植民地諸国に暴力的政治体制の役回りを引き受けさせた上でのデモクラシー、沖縄の要塞化、そして『国体の護持』・・・。冷戦構造という最も大局的な構図に規定されることによって、これらすべての要素が、『日本は第二次世界大戦の敗戦国である』という単純な事実を覆い隠してきた」。「今日表面化してきたのは、『敗戦』そのものが決して過ぎ去らないという事態、すなわち『敗戦後』など実際は存在しないという事実にほかならない。それは、二重の意味においてである。敗戦の帰結としての政治・経済・軍事的な意味での直接的な対米従属構造が永続化される一方で、敗戦そのものを認識において巧みに隠蔽する(=それを否認する)という日本人の大部分の歴史認識・歴史的意識の構造が変化していない、という意味で敗戦は二重化された構造をなしつつ継続している。無論、この二側面は相互を補完する関係にある。敗戦を否認しているがゆえに、際限のない対米従属を続けなければならず、深い対米従属を続けている限り、敗戦を否認し続けることができる。かかる状況を私は、『永続敗戦』と呼ぶ。・・・彼ら(権力を持つ者たち)は、国内およびアジアに対しては敗戦を否認してみせることによって自らの『信念』を満足させながら、自分たちの勢力を容認し支えてくれる米国に対しては卑屈な臣従を続ける、といういじましいマスターベーターと堕し、かつそのような自らの姿に満足を覚えてきた。敗戦を否認するがゆえに敗北が無期限に続く――それが『永続敗戦』という概念が指し示す状況である」。実に的確な指摘である。
「永続敗戦」という事態は、さらに続くのだろうか。「今日、このレジームはもはや維持不可能なものとなった。ひとつには、グローバル化のなかで『世界の工場』となって莫大な国力を蓄えつつある中国は、日本人のかかる『信念』が中国にとって看過できない害をなすのであれば、それを許容しはしないということ。そして第二には、1970年代以降衰退傾向を押しとどめることのできない米国は、冷戦構造の崩壊以後、日本を無条件的同盟者とみなす理由を持たない、という事情が挙げられる。そのとき、米国にとっての日本は、援助すべき同盟者というよりも収奪の対象として現れる。だが、こうした客観的情勢にもかかわらず、『侮辱の体制』はいまだ頑として聳え立っている」。
著者は「永遠敗戦」をキーワードにして、対外関係の諸問題――尖閣諸島問題、北方領土問題、竹島問題、北朝鮮の拉致問題――が二進も三進もいかない状態に嵌まり込んでいる理由を明らかにしている。
さらに、「それ(レジームの二重性)は、『敗戦』という出来事の消化・承認の次元において機能している。すなわち、大衆向けの『顕教』(公然の教え)の次元においては、敗戦の意味が可能な限り希薄化するよう権力は機能してきた。『戦争に負けたのではない、終わったのだ』、と。そのことに最も大きく寄与したのは、『平和と繁栄』の神話であった。この顕教的次元を補完する『密教』(秘密の教え)の次元は、対米関係における永続敗戦、すなわち無制限かつ恒久的な対米従属をよしとするパワー・エリートたちの志向である」と、「永遠敗戦」の上に構築されてきた対米関係を俎上に載せ、その背後で蠢く驚くべき存在に肉薄するのである。