榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

アイスランドで最後に死刑になった実在の女性の内面に迫った物語・・・【情熱の本箱(86)】

【ほんばこや 2015年5月26日号】 情熱の本箱(86)

凍える墓』(ハンナ・ケント著、加藤洋子訳、集英社文庫)は、アイスランドの重苦しい空気の中で展開される、アイスランド人なら誰もが知っている、アイスランドで最後に死刑になった実在の女性、アグネス・マグノスドウティルの心の内面に迫った物語である。

「アグネスは空っぽの空を見上げた。斧の最初の一撃が丘に響き渡った」。物語の最後の場面はこう結ばれている。処刑場に引き据えられたアグネスより先に刑が執行された共犯のフリドリク・シグルドソン断首の瞬間である。1830年1月12日のことであった。

アグネスの雇用主であった農場主・薬草商のナタン・ケーティルソンと、その仲間のピエトル・ヨウンソンを殺した疑いで収監されているアグネス。「彼らはわたしを連れ出し、また手枷を掛けた。・・・(裁判所からやって来た事務官が)口を開くと腐った歯が覗いた。息がくさかったが、くさいのはわたしもおなじだ。ひどい悪臭を放っている。わたしの体は泥と、体から流れ出たもので覆われている。それに血と汗と脂。最後に体を洗ったのはいつだったろう。髪は油を吸わせたロープのようだ。・・・事務官の目に映るわたしは、怪物だろう。・・・自分のくさい息とおまるのにおいが充満する部屋に閉じ込められて数ヵ月、いま、ストラ=ボーグの廊下からぬかるむ庭に出た。雨が降っていた」。

死刑判決を受けたアグネスは、死刑執行までコルンサウ農場主・行政官のヨウン・ヨウンソン一家に預けられる。農場主の妻・マルグレットの目に映ったアグネスの風貌。「この女は醜女でも美人でもなかった。たしかに目立つ顔だけれど、若い男から飢えた視線を向けられる類の女ではない。体は細い。南部の人たちが『小妖精のような細さ』と呼ぶ体つきで、背の高さはふつうだ。ゆうべ、台所で見たとき、面長なほうだと思った。高い頬骨とまっすぐな鼻筋が人目を引く。あざを差し引けば肌は青白く、髪が黒っぽいせいで白さが引き立つ。珍しい髪色だ。このあたりでは女でこの色の髪はめったにいない。とても長い髪は、とても濃い色だ。黒にちかい濃い茶色」。

「フーナヴァトゥン県のコルンサウ農場。6歳のとき、母はキスと石だけ残し、この家の戸口にわたしを置き去りにした。そしていま、33歳になったわたしは、2人の男を殺して火をつけた罪で、ふたたびここに連れて来られた。わたしは渡りの労働者として、北へ北へと流れていった。どこへ行っても貧しさに変わりはなかった。家の中にあるべきものがないのは、どこもおなじだった。だったら、ひとつところでずっと暮らしていればよかった。ここがそうなのだ。コルンサウ農場が、わたしが行き着いた場所。最後のベッド、最後の屋根、最後の床。その先に待つのは刑罰」。

アグネスの教誨師に指名された真面目な若き牧師補、トルヴァデュル(トウティ)・ヨウンソンと、冷徹な県行政長官、ビョルン・オイドゥンソン・ブリョンダルの会話。「『アグネスは袖にされた腹いせにナタンを殺したと、あなたは思っているのですね』。『いいかね、容疑者は3人だ。金槌を持った17歳の盗人、自分の命を脅かされた15歳のメイド、報われぬ思いが憎しみに変わった年増女。このうちのひとりが、ナタンにナイフを突き立てた』。頭がくらくらしてきたので、トウティは机の縁に置いた白い羽根をじっと見つめた。『信じられません』。ぽつりと言う。・・・『つまり、彼女を見せしめにするということですね』。『この地上に神の正義を届けるということだ』。ブリョンダルは渋い顔をした。『法の番人としての使命をまっとうすることで、わたしを任命してくれた当局に報いることにもなる』。・・・『ぼくにどうしろと?』。『神の言葉に立ち返るのだ。アグネスの言うことは忘れたまえ。自白以外、彼女から話を聞く必要などない』」。

ナタンの家政婦を辞めたばかりの女性の言葉。「『あたしがイルガスターデュルを出たのは、ナタンに我慢できなくなったから。彼は・・・人の心をもてあそぶんです』。さらに身を寄せ、唇を震わせた。『彼は楽しんでいたんですよ、きっと。彼の言うことをどこまで信用していいのかわからなかった。口で言うこととやることがちがうんです』」。

こんなナタンにアグネスは夢中になってしまう。「ナタンを知らないわたしなんて、ありえない。彼を愛さないわたしなんて、考えられない。彼を見た瞬間、自分がなにを渇望していたのかがわかった。渇望はあまりにも根深く、わたしを夜へと駆り立てた。怖くなるぐらいに」。

「その晩、わたしたちは牛小屋に行った。わたしは口と乳房とで、彼の掌の窪みを埋めた。重なる彼の体に出会った。彼の両手がスカートを掴んでたくし上げると、肌に当たる冷気を感じた。それから、はじめて肌と肌が触れた。それは弾丸、自由落下。靴下留めは膝までずり落ち、彼の髪がやさしく首筋を撫でた。あのとき、わたしは彼の重みを乞い求めた。彼の吐息を乞い求めた。速くなる呼吸、彼の口のあたたかな圧力。彼のにおい、滑って跳ね上がる彼の体、ほかの誰ともちがっていた。わたしは思い切り首をそらし、吹き寄せる湿気に顔が濡れた。彼を感じた。彼の熱を感じ、彼のすばやさを感じた。彼のうめき声が漂う。火山の上にたなびく灰のように。あとから泣きたくなった。あまりにもほんものすぎたから。あまりにも感じすぎて、それがなんなのかわからなくなった。・・・長い冬のあいだ、彼は何度も訪ねて来た。粉雪の舞う底冷えのする寒さのなか、ほかの人たちが寝静まったころ牛小屋で。谷間は雪に包まれ、作業小屋で乳は凍りついていたけれど、わたしの魂は溶けていった。風がうなっていても、彼の唇が触れたあとには火が燃え盛った。すべてが凍りついたあとは、食料庫で逢引した。・・・あの有名なナタン・ケーティルソン・・・類まれな男・・・が、わたしを選んだ。生まれてはじめて、わたしをちゃんと見てくれる人に出会えた。彼はわたしに、このままの自分でいいのだと思わせてくれたから、わたしは彼を愛した。スカートのなかに手を入れて、彼が残した傷を探り当てて押すと、痛みが肌に広がってゆく。傷跡は彼の手の名残り、彼と手を重ね体を重ねた証。闇のなか、悦楽の声をあげて、よじ登るわたしの手足。退屈な日々の仕事も、ひとり寝の夜も、朝起きればきまりきった仕事が待っている日常も、隠れた傷跡が教えてくれたから耐えられた――息が詰まる、ありきたりの人生に終止符が打たれることを」。

「わたしは彼の農場に行き、一緒に暮らす約束をした。彼がわたしを谷間から連れ出してくれるだろう。愛のない惨めな生活から救い出してくれるだろう。なにもかもあたらしくなるのだ。彼がわたしに春をくれるだろう」。しかし、このアグネスの期待は、物の見事に裏切られる。ナタンが、気に入っている15歳のシグリデュル(シッガ)・グドゥモンドウティルを後任の家政婦に指名し、アグネスにはその下でワークメイドとして働けと言うのだ。家政婦にすると言ってくれていたのに。「彼の使用人でいることがいやでたまらなかった。ある晩は彼の愛人。彼の激しい息遣いは、わたしの息遣いにぴったり合っている。それからべつの晩は、ワークメイドのアグネス。家政婦ですらない! 彼の冷ややかな命令が叱責に聞こえる。『羊を集牧してこい。雌牛の乳を搾れ。雌羊の乳を搾れ。水を汲んでこい。灰を集めて土に撒いておけ。ソラナになにか食べさせろ。あの子を泣かすな。泣きやませろ! この鍋は汚れが落ちていない。シッガに頼んで、ビーカーの洗い方を教えてもらえ』。・・・一日じゅうナタンのことを思っている自分が憎かった。そんな自分にうんざりしていた。彼に愛されていないと思ったとたん吐き気を催す自分が、いやでたまらなかった」。

間もなく、アグネスは、シッガに熱を上げるナタンに農場から追い出されてしまう。「ナタンは小柄だが力はある。わたしを引き摺って廊下を抜け、玄関から押し出した。わたしは敷居につまずいて雪の上に大の字になった。裸のままで。わたしが膝立ちになったとき、彼はドアをバタンと閉めた」。そして、1828年3月13日の深夜に起こった凄惨な殺人・放火事件に巻き込まれてしまうのだ。

読み終わって、この作品が英国を初めとする各国でベストセラーになっている理由が分かったような気がする。モデル小説の域を超えた事実の持つ重みが、人々の心を揺さぶるのだろう。