子爵夫人とお付きのメイドの丁々発止のやり取りの赤裸々な記録・・・【情熱の本箱(70)】
世に回想録の類いは多いが、『おだまり、ローズ――子爵夫人付きメイドの回想』(ロジーナ・ハリソン著、新井雅代訳、白水社)は、面白さにおいて群を抜いている。その面白さは、労働者階級出身ではあるが、自分の価値観を持ち、頭の回転が速く、しっかり者で、弁も筆も立つ著者、ローズことロジーナ・ハリソンに負っている。加えて、著者がメイドとして35年に亘り仕えたアスター子爵夫人・ナンシー、レディ(英語の発音ではレイディ)・アスターが桁外れの貴婦人で、著者に負けず劣らず面白いのである。さらに、メイドと女主人の丁々発止のやり取りが捧腹絶倒ものなのだ。「奥様との日々は絶えることのない衝突と無理難題の連続で、二人ともちょくちょく痛い思いをしたにもかかわらず、わたしたちはそんな毎日をとてつもなく楽しんでいました。身分や懐具合は違っても、わたしたちは性格的には似た者同士でしたし、お互いに相手に一目置いていたように思います」。
「わたしの仕事と生活を理解するには、わたしが働いていた場所とその広さ、運営にかかわっていたスタッフの人数も頭に入れておく必要があります。アスター家のお屋敷のなかで最も大きく、最も有名なのはクリヴデンですが、ご一家のお住まいはそれだけではありませんでした。セントジェイムズ・スクエア4番地の大きなタウン・ハウス、ケント州サンドイッチにあるレスト・ハロー、プリマスのエリオット・テラス3番地。これはいわば政治活動用の家で、旦那様がはじめてプリマス選挙区から下院議員選挙に立候補されたときに買ったものです。またインナー・ヘブリディーズ諸島のジュラ島にはターバート・ロッジがあり、ご一家はここで鹿狩りや釣りを楽しまれました。・・・家事を切り盛りするために雇われていた屋内スタッフは。家令・執事のリー氏を筆頭に、従僕と副執事、下男3人、雑用係2人、ホールボーイと建具屋が1人ずつ。厨房にはシェフと厨房メイド3人、洗い場メイドと通いの手伝いが1人ずつ。ハウスキーパーの下に食料品貯蔵室づきのメイドが2人とハウスメイドが4人、通いの手伝いが2人。さらに洗濯場メイドが4人と、レディ・アスターと(お嬢様の)ウィシー様のお付きメイドが1人ずつ、そして電話交換手と夜警も1人ずつ。屋外スタッフは屋内よりはるかに大人数で、具体的には・・・」というのだから、そのスケールには舌を巻く。
また、レディ・アスターの社交面の華麗なこと。「(T・E・ロレンス、アラビアの)ロレンスは奥様の親友のひとりで、ご自分でオートバイを駆って訪ねてきていました。きっとロレンスと奥様は、その話をしていたのでしょう。二人していきなり立ちあがると、外に走りでてバイクに飛び乗ったのです。奥様を後部シートに乗せたバイクは、土煙に包まれて猛スピードで私道を走り去りました」。
「不仲だったウィンストン・チャーチル氏と奥様が唯一ぴたりと寄り添う姿を見せたのは、ロレンスの葬儀でのことでした。立ち去ろうとしたチャーチル氏に奥様が駆け寄り、手をとったのです。お二人は無言のまま心を通いあわせ、涙を流しながら立ちつくしていました」。
「第二次世界大戦の直前に開かれた(奥様主催の)パーティーで、このときは新旧の王妃様が3人も出席されていました。メアリー皇太后、ユーゴスラヴィアのマリー王妃、それにエリザベス王妃で、もちろんエリザベス王女(のちのエリザベス二世)とマーガレット王女もごいっしょでした」。
「文学界のお友達のなかで奥様がいちばん親しくされていたのはバーナード・ショーで、これはわたしには不似合いなコンビに思えました」。
ローズの奥様評は容赦がない。「レディ・アスターづきになると、わたしは1日18時間、年中無休で集中力を切らさずにいることを求められました。おまけに、せっかくこちらが集中して何かをしていても、奥様はころりと気を変えて、わたしにも頭を切り替えることを要求なさるのです――それもご自分と同じ早さで。レディ・アスターづきのメイドの仕事は、それまで上流婦人のお付きメイドの仕事だと思っていたものとは別物でした」。
しかし、奥様の長所は素直に認めている。「レディ・アスターづきになった時点で、わたしは職業的な目で奥様をながめてみました。身長5フィート2インチ(約156センチ)と小柄でスリムな体つき。お姿がよく、身のこなしもきれいでしたが、わたしの好みからいうと、しばしば動作が速すぎるきらいがありました。お体は丈夫で、病気や女性にありがちな不調がつけこむ隙はなし。・・・馬のように頑強でした。小柄ながらハイヒールを履いて背を高く見せようとはせず、靴は昼用も夜用もごく普通の太めの中ヒール。奥様を見ていると、(わたしの出身地の)ヨークシャーでよく使われていた『小粒でも中身は充実』という言葉を思いだしたものです。・・・奥様は運動を欠かしませんでした」。
奥様はそんじょそこらの並みの貴族夫人ではなかったのである。「奥様が政治家としての責任をとても真剣に受けとめていたことは間違いないと思いますが、その一方で、初の女性国会議員(プリマス選出の下院議員)として、あとに続いた女性議員たちにお手本を示すのもご自分の務めだと感じていらしたのではないかという気がします」。
ローズと奥様とのやり取りは、こんなふうである。「(お気が変わりやすい奥様に対する)せめてもの抵抗に、『そもそも奥様のお指図がなければ、わたしがその服を出すと思いますか?』と申しあげても、返ってくるのは『おだまり、ローズ』のひとことだけ。ようやく着つけがすむと、奥様は鏡の前に立ち、ご自分で細かい部分を点検します。何かまずいことがあると、お小言はまぬがれません」。
「(奥様は)高価な装身具をつけるのが大好きで、わたしの好みから言うと、たくさんつけすぎることもしょっちゅうでした。くるりと向き直って『どうかしら、ローズ?』とおっしゃる奥様に、わたしは『おや、それっぽっちでよろしいんですか、奥様?』と応じ、毎度おなじみの『おだまり、ローズ!』のひとことをちょうだいしたものです」。
「奥様もわたしも、いまさら性格を変えられるわけがありません。そこでわたしは奥様とのあいだできわどい場面を作りだし、戦いのルールを決めたのです。それは意地と意地、知恵と知恵のぶつかりあいになるはずで、わたしはつねに気を強く持ち、頭の冴えた状態を保っておく必要がありました」。
「歳月とともに、わたしたちの関係もしだいに角がとれ、激しいいさかいは言葉による小競り合いめいたものに変わりました。当時は知らなかったのですが、どうやらわたしたちの口論は、使用人だけでなくご家族にも笑いと話題を提供していたようです。ずいぶんあとになって聞いたところによれば、わたしたちが揉めていると、(旦那様の)アスター卿はご自分の化粧室に行って聞き耳を立て、大笑いされていたとか。・・・わたしがレディ・アスターを理解し、上手にお仕えしていくための鍵を見つけたことです。奥様はへいこらされるのがお嫌いで、いわゆるイエスマンをお好きではありませんでした」。
「月日が流れ、お互いの存在に慣れてくるにつれて、奥様とわたしは心を通いあわせるようになりました」。
ローズとレディ・アスターという、どちらも一筋縄ではいかない主役だけでなく、登場する脇役たちも、それぞれが個性的で興味深い。また、当時の貴族階級と使用人たちの生活ぶりを知りたいという好奇心も、本書は十分に満たしてくれる。