榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

邪馬台国論争は、本書にて一件落着・・・【情熱の本箱(147)】

【ほんばこや 2016年6月23日号】 情熱の本箱(147)

軽い気持ちで『かくも明快な魏志倭人伝』(木佐敬久著、冨山房インターナショナル)を手にしたが、これは歴史に残る驚くべき書である。51年間に亘り、邪馬台国論争に関する主要な著作・文献のほとんどに目を通してきたが、邪馬台国論争は本書にて一件落着と言ってよいだろう。

なぜなら、これまでの長い邪馬台国論争史上、一番の難関であった方角と距離の問題が見事に解決されているからである。だからと言って、この解決に当たり、著者が超技・奇手を編み出したというわけではない。「魏志倭人伝」に書かれているとおりの方角に、書かれているとおりの距離だけ行った所に目指す邪馬台国が姿を現わしたのである。

こういう目覚ましい成果が得られた背景には、著者の3つの研究方針が大きな役割を果たしている。方針の第1は、魏志倭人伝の内容が信頼できるということを確認した上で、あれこれと自説に都合のよい解釈を加えることなく、素直に書かれているとおりにルートを辿ったこと。第2は、魏志倭人伝を含む『三国志』(正史)全体を当時の中国の読者がどう読んだかということを重視して、『三国志』で使われている用語の定義や用例を突き止めたこと。第3は、いわゆる「地名音当て主義」に依拠せずに、魏志倭人伝に書かれているとおりの方角に書かれているとおりの日数だけ船で行き、陸上では書かれているとおりの方角に書かれているとおりの里数だけ歩を進めたことである。

著者は、第1の点について、三国志を著した陳寿は精確な記述で評価されていた人物であり、魏志倭人伝の部分を書くに当たり、陳寿が聴取した張政は、魏使であると同時に邪馬壹国の軍事顧問を務めた人物で、その邪馬壹国滞在期間は卑弥呼の時代から次の女王となった壹与が中国に朝貢した時までの20年間に及んだことを文献で確認している。

江戸時代から今日に至るまで多くの研究者が邪馬台国論争に関わってきたが、彼らのうちの誰一人として著者と同じ結論に達することができなかったのはなぜか。これには方針の第2が関係している。著者以外の研究者たちは、距離を表す里の単位を「長里」で考えていたからである。著者が、魏志倭人伝が書かれた時代には、「長里」ではなく、「長里」の5~6分の1の長さを表す「短里」(1里=約76メートル)が使われていたことを発見したことが、発想の転換をもたらし、大きな成果に繋がったのである。

なお、著者は、魏志倭人伝が書かれた当時は、「邪馬臺(「臺」は「台」の旧字体)国」ではなく「邪馬壹国」と表記されていたことを文献で検証している。3世紀の三国志では「邪馬壹国」が正しく、5世紀の後漢書では「邪馬臺国」が正しいというのだ。

第3の方針に従って、魏志倭人伝の記述どおりに旅を進めた場合、どこに辿り着くのだろうか。九州本土の末盧国(唐津)から原文どおり「東南」へ500里(短里で約38km)「陸行」すると、佐賀市の手前の旧・小城町(現・小城市)付近に達する。ここが伊都(いつ)国である。伊都国から再び「東南」へ100里(約7.6km)進むと、奴(の)国に至る。佐賀市付近だ。「奴国」の佐賀市から東へ100里行くと、千代田町の辺りで筑後川にぶつかる。ここが「不弥国」だ。当時は筑後川の下流は現在より西寄りに流れ、「不弥国」は有明海の湾奥、筑後川の河口近くになる。なお、吉野ケ里遺跡は不弥国の港まで7~8kmの近距離なので、上陸する敵に備えて二重の環濠や、物見櫓で防備を固めていたと考えられる。

「不弥国」から南の「投馬国」へ、有明海を経由する「水行二十日」の海が広がっている。有明海北岸部から「南」に20日進むと「投馬国の入口」の奄美大島に至る。すなわち、「投馬国」は琉球圏だったのである。「『南至る投馬国、水行二十日』という原文を素直に読めば、琉球圏を想定しない方がおかしい。だが、江戸時代以来、誰もそうしなかった。沖縄は本来の日本(倭国)ではない、という潜在意識が、古代史研究にも深く影響してきたのではないか」。

魏志倭人伝が記述している「倭国」とは、北は対馬から南は琉球圏に及ぶ「九州」であり、「筑紫の山」(邪馬壹国)を「都」とする「九州王朝」なのだ。

「邪馬壹国の入口は筑後の城島町(現・久留米市)付近である。邪馬壹国の中心部は、女王の宮殿のある所である。地形から見ても歴史的に見ても、筑後平野を制する位置にある「高良山」と考えるのが自然だ」。魏志倭人伝を原文どおりに読んでいった結果、邪馬壹国は筑後川河口の福岡県側にあり、「女王の都する所」は久留米市の高良山にあるという結論に至った。高良山は、耳納山地の北端が筑後平野に突き出した標高312mの山で、筑後平野を一望できる。その標高200m余りの所にある高良大社は筑後国の一の宮である。卑弥呼の宮殿に相応しい広い敷地があり、「城柵」の跡と考えられる「神籠石」が周囲を取り巻いている。<城柵、厳かに設け、常に人有り、兵(=武器)を持して守衛す>という魏志倭人伝の一節を連想させる遺跡だ。

「現代でもそうであるが、古代は特に、食糧が豊富に生産できることが強国の条件である。筑後平野は九州で最大の穀倉地帯であり、筑後平野を制する者は九州を制したのである。この高良山のあたりは、6世紀前半に筑紫の君、つまり九州王朝の王者である『磐井』が本拠とした御井郡にあたり、北に筑後川、南に耳納山地という天然の要害に守られている。一方、筑後川や西の有明海は、旁国二十一国や投馬国(琉球圏)との交通にも役立つ。唐津へは1日か2日の距離で、朝鮮半島や中国との通交・防衛にも適切な距離にある」。

「『七万余戸』という巨大な戸数は、人口に直すと40万人近くになりそうだ。とても首都・邪馬壹国だけには収まらない。女王国全体の戸数である。女王国の南には旁国二十一国と狗奴国があり、女王国は九州の東岸に面している。これらを考えると、女王国は現在の福岡県と大分県にほぼ相当する」。

「(邪馬壹国への)総日程『水行十日陸行一月』の起点はどこなのか。天子をはじめ、当時の読者が集中する『首都・洛陽』以外にあり得ない」。

著者の「魏志倭人伝は明快に書かれている。ただし、書かれた当時の中国の読者にとっては――」という主張が正しいことが明らかになったのである。