榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

モームの数々の謎に挑戦した、モーム・ファン垂涎の一冊・・・【情熱の本箱(172)】

【ほんばこや 2017年2月28日号】 情熱の本箱(172)

モームの謎』(行方昭夫著、岩波現代文庫)は、私のようなサマセット・モーム・ファンにとって垂涎の書である。

モームが愛し、かつ憎んだ「ミルドレッド」とは、どういう女性だったのか。モームは同性愛者だったのか。結婚と離婚の真相は? 本当に英国対外情報部(MI6)のスパイだったのか――これらの謎に可能な限り光を当てようという著者の情熱に圧倒される。

「彼(モーム)が愛しかつ憎んだ女性といえば、すぐに『人間の絆』のミルドレッドを挙げる人が多いと思う。彼女は作中人物なのだから、正確には『主人公フィリップが愛しかつ憎んだ』と書くべきであるが、この場合、フィリップとモームはほぼぴたりと重なっている。ミルドレッドのモデルとなった現実の人物に関しては、多くの伝記作家の努力も虚しく、いまだに謎のままであるのは確かである。だが、モーム自身の医学生時代の実体験であるのは、これまた確かである。『人間の絆』は、付きまとって離れぬ過去の不快な思い出からの解放を願って書いた自伝的小説だ、と作者が告白している。そして、数々の思い出の中で、もっとも詳細かつ執拗に描かれているのが、主人公とミルドレッドとの愛憎関係である。フィリップは自分の理性では到底克服できない、根底から彼を揺さぶる強烈な性的欲望を彼女に対して抱いた。それも、ほんの一時期というのではなく、かなりの期間続くのである」。

この件に対する著者の見解は、こう記されている。「モームは医学生だった頃、顔に古典的な美しさがあるけれど、階級、教養、価値観、趣味などの面ではあまりに違うので反感を覚えるような、ある若い女性と親しくなった。・・・関係は強烈なものであったけれど、友人の誰もが気づかぬほど、時間的には短いものだったからである」。『人間に絆』では、読者により強いインパクトを与えることを狙って、二人の関係が長期に亘ったことにしたというのだ。

『人間の絆』では、フィリップが性的な合体を強く願っても、ミルドレッドのほうは常に気が進まない様子がはっきり見て取れる。モームは、顔は美しいが価値観が一致しないことを承知の上でその女性を愛してしまったが、相手はモームに魅力を感じなかったという不幸なケースと、私は考えている。若い時は顔の美しさに惑わされがちなこと、価値観の違いを乗り越えることは非常に難しいこと――を、改めて認識させられた。

「多くの人がモームが秘書(兼パートナー)を甘やかしているのは、その魅力に惚れ込んでいるからだと思った。彼(18歳年下のフレデリック・ジェラルド・ハックストン)はモームの持たぬ明朗さ、気軽なお喋り、人をくつろがせる優しさ、楽しい雰囲気づくりなどに加えて、容貌の美しさ、スタイルの良さが同性愛者としてのモームにはこたえられぬ魅力だった」。「作家モームが短篇の名手として高い評価を得たのが、多分にハックストンのお陰だというのは真実である」。ハックストンは、自分の経験や周囲で起こったあれこれを短篇の材料として、モームに提供していたのである。

ハックストンの死後、31歳年下のアラン・サールという青年が秘書兼パートナーの後釜に座るが、モームの最期を看取ったのはサールであった。

モームの結婚と離婚について、著者はこのような結論に達している。「結婚したいというシリーの熱意に、結局彼が根負けしたのだろう。他人の不幸を目にするのに弱いところのあるモームは、彼女の悲しそうな涙を見て、情にほだされたに違いない。モームにとって自分は愛していなくても、シリーに本気で愛されるのは、不快ではなかった。孤児で寂しかった自分の子供時代を振り返って、(不倫時代にできた娘)ライザを同じ目に遭わせたくないという気持ちも働いたであろう。また、社交界に友人の多いシリーのことだから、もしモームに結婚を拒絶されれば、モームが同性愛だと気づいていた彼女がそれを触れ回る可能性も否定できなかった。さらにもう一つ、プレイガールだという噂のある女性と結婚すれば、世間は自分を同性愛者だとは思うまいから、モームにとって好都合だったという点も大きい」。これは、フィリップとミルドレッドとの関係とは逆に、男女の立場が入れ替わったケースと言えるだろう。このような打算と確執の結婚生活がうまくいくわけはないのだ。

「彼が第一次世界大戦、第二次世界大戦の両方で英国政府のためにスパイとして働いたのは、広く読まれている短篇集『アシェンデン』で彼の分身が登場するので明らかである」。

個人的には、2つのエピソードが興味深い。

「モームは、好きな女流作家ジェーン・オースティンについて、とくにどうというような大事件が起きるわけでもないのに、1ページ読んだら、次のページをめくってしまわせる語りの巧さを激賞している」。モームが、私の好きなオースティンを認めていたとは、嬉しい限りだ。

「作家としていずれ忘れられても気にならない。批評家にどう思われても、気にならない。自分は数年まえに4つの小説を書こうと計画した。その中の1つは書いた。残りの3つは、16世紀スペインの奇跡の物語、マキャヴェリを主人公にする物語、ロンドンの貧民街の一家の物語だが、もう書かないで終わるだろう。創造力が衰えてきたからだ。偉大な作家でも晩年の作品はまず評価されていないのだから、自分の場合も仕方ない」。モームが作家としての自分を冷静に評価している点には好感が持てる。それにしても、モームのマキャヴェリ物語を読んでみたかったなあ。