「織田信長は革新者」というイメージを覆す近年の研究成果・・・【情熱の本箱(211)】
これまで、私は織田信長を、その革新性ゆえに高く評価してきたが、近年の研究成果を踏まえて革新者というイメージが覆されつつあるという。具体的にどういう研究結果に基づく変化なのか知りたくて、『信長研究の最前線――ここまでわかった「革新者」の実像』(日本史史料研究会編、洋泉社・歴史新書y。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)を手にした。
信長に関する14のテーマについて、それぞれの分野の気鋭の研究者が史料に基づいた最新の研究成果を紹介しているので、一部の作家が想像に任せて描いた信長像や本能寺の変の原因説などとは、その説得力に各段の差がある。
政治権力者としての信長の実像に迫ろうというテーマのうち、「信長は、将軍足利義昭を操っていたのか」、「信長は、天皇や朝廷をないがしろにしていたのか」に注目した。
信長は軍事的カリスマか否かというテーマの中では、「信長を見限った者たちは、なにを考えていたのか」、「明智光秀は、なぜ本能寺の変を起こしたのか」に興味を惹かれた。
信長の経済・文化政策は特筆されるかというテーマでは、「信長の流通・都市政策は独自のものか」が圧倒的に重要と考えている。
●信長は、将軍足利義昭を操っていたのか――。
「将軍義昭は、信長の『傀儡』ではなく、その権力は信長の軍事力などによる権力と相互補完の関係にあり、そのような体制について『二重政権』であると規定された。また、久野(雅司)氏は将軍義昭・幕府について、畿内を直接支配し、また権限の及ぶ範囲である『畿内における最大の政治権力であった』と述べた。このように明確に将軍義昭について、信長の『傀儡』とする従来の見方を否定されたのである。これは画期的な指摘であったといえる」。
「義昭の幕府はそれ以前の戦国時代の将軍・幕府と同様に機能しており、けっして信長の『傀儡』と理解されるようなものではなかったことが判明してきている。当然、信長の存在を無視することはできないが、義昭と信長の関係は、けっして特別なものではなく、戦国時代を通じて見られる将軍・幕府と諸大名との権力構造の延長線上にあった」。
●信長は、天皇や朝廷をないがしろにしていたのか――。
「現在でも、信長と天皇の関係を対立・抗争を基軸に捉える考え方はしばしば見られるが、一方、近年では両者の協調・融和関係を基調とした『公武結合王権論』の枠組みで語られるようになった。『公武結合王権論』とは、信長(武家)も天皇・朝廷もお互いに相手を排除して国家権力の一元化をはかることはなく、お互いに相手を不可欠な存在として結びつき、国家権力を構成する、という捉え方である。この説の主眼は、公武の両者は妥協的に結びついたのではなく、協調路線のうえで相互補完的な関係にあった、という点にある」。
「戦国時代の朝廷をたんなる伝統的権威とのみ捉えるのは、あまりに短絡的といえる。また織田信長も、天皇や朝廷をほしいままに動かしていた、というわけでもなかった。もちろん、当時の現実的な政治支配の大半は武家(信長)が行っているものの、朝廷はその支配に正当性(理があるか、正しいか)・正統性(ふさわしいか)を判断して、それを規定し、方向づけるという、政治・秩序の保証者としての役割を果たしていたのである」。
●信長を見限った者たちは、なにを考えていたのか――。
「信長の人材登用は能力主義といわれるが、けっして能力を発揮する機会が平等に与えられたわけでも、その能力が公正に評価されたわけでもなかった」。
「松永久秀・別所長治・荒木村重は、信長の上洛や西国への進出において功績があった。しかし、信長はそれらを無視し、彼らと対立する筒井順慶や浦上宗景、傲慢な羽柴秀吉を登用した。そのため、長治や村重は家臣や与力関係にある国人に対する面目を潰された。そのうえ、信長の目指した政策は、在地の国人や百姓との関係を損なうものであった。さらに信長が登用した塙直政や宗景、秀吉は結果を残せなかった。信長の不公平で失態続きの人材登用が繰り返される一方で、西国には現職の征夷大将軍(義昭)に味方するという大義名分が存在していた。久秀・長治・村重は、与力の国人や家臣、百姓に対する支配を信長に脅かされるなかで、自らの将来が見えたからこそ、信長を見限らざるを得なかった」。
●明智光秀は、なぜ本能寺の変を起こしたのか――。
「これまでの本能寺の変をめぐる議論のなかで、共通認識としてはっきりとしてきたことがある。それは、織田権力の四国外交との関連である。四国外交との関連自体は、早くに指摘されはしていたが、これを本格的に議論の俎上にのせたのは、藤田達生氏であった。そして、この四国外交との関連に関しては、桐野作人氏により深化され、現在では変の主要動機・背景に位置づけられているのが、現状である」。
「織田・長宗我部両氏間の同盟外交を取り持った取次(外交官)こそが、織田家の重臣としてあった明智光秀であった。・・・(織田と長宗我部の)外交関係の転換の要因には、信長が長宗我部氏の四国における勢力圏の展開を功績次第にせよと承認したにもかかわらず、それを覆して長宗我部氏には土佐本国と阿波南部半国のみの領有とし、これに対し長宗我部氏側が拒絶を示したことにある」。
「この四国外交の転機が、両者間の取次を務めていた明智光秀の立場にどのように影響していったのか。このことは、本能寺の変の動機に大きく関係していよう」。
光秀の妹が信長のお気に入りの側室だったという驚くべき情報が記載されている。「信長との関係を良好に取り持っていた信長側室の妹が(本能寺の変の前年の)天正9(1581)年8月に死去しており(『多聞院日記』)、信長との関係がこれまで通りに進むことはなく、光秀は織田信孝を擁して四国出兵を求める側との政争に敗れた」。本書で引用されている奈良興福寺の僧・英俊の『多聞院日記』だけでなく、神道家・吉田兼見の『兼見卿記』、公家・山科言経の『言経卿記』にも、光秀の「ツマキ」という妹が登場しているのだ。
「谷口克広氏が指摘するように、『当代記』によると、この時67歳であったとされる光秀にとって家の将来性が失われることは大きな悲嘆であり、年齢との関わりより早急な対処が求められたであろう。・・・変直前の光秀の置かれている立場を探ると、四国外交をめぐる政争に敗れた明智家の政治的失墜に対し政治生命・格の護持のため、現状の織田権力の中枢政務運営を打破して、四国出兵の実施を阻止することが、何よりもの動機としてあったことが確認できよう」。
「信長から離反したかにみえる(長宗我部)元親であったが、(光秀の重臣の)斎藤利三や石谷親子(光政・頼辰)の説得が功を奏したのか、信長の『御朱印(=領土割譲案)に応じ』る姿勢を示す返書を利三に送っている。もっとも、この書状はなんら効力のない空手形のような紙クズ同然の代物となってしまったおそれがあった。なぜなら、この書状は5月21日付である。周知のように、明智光秀と斎藤利三の両者が信長を急襲した『本能寺の変』は、6月2日に引き起こされた。そして、この年の5月は暦のうえで『小の月』であり、29日までしかなく、返書が利三の手に渡り、光秀によって内容が信長に伝えられるには、あまりにも日数的に余裕がなかったといわざるを得ないのである」。
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●信長の流通・都市政策は独自のものか――。
「楽市楽座令は、あたかも信長が先鞭をつけたとか、彼独自の政策として扱われてきたが、実際のところはそうではない。・・・これまで新都市建設法・自由商業法として捉えられてきた楽市楽座令は、近年、都市や市場など政策が施行される地域の視点から、全面的に読み直す研究がすすめられている。これにより現在では、革命的政策という仰々しい評価は改められ、楽市楽座令は地域住民の要望をうけて出されるもので、戦国大名のめざす立場は、都市や市場の強固な支配や搾取ではなく、これを復興・保護することにあったという見方が主流となっている」。
「信長の(楽市楽座令や関所撤廃の)政策はそのすべてが特別なものだったわけではない。市場や都市、商人を通じて物流を掌握しようと考えるのはごく自然で、それは他の戦国大名も同様である。そのなかで、信長の政策だけが『先進的』だったという実証はなされていない」。
このように読み進めてくると、本書が主張するように、信長が革新者であったというイメージは改めざるを得ない。しかし、異なる観点に立てば、信長は己の目標達成のために活用できる政策は偏見なく積極的に取り入れていった強かな戦略家だったと言えるのではないか。そういう信長だったからこそ、結果的に中世を終わらせ、近世を切り開くという歴史的転換を成し得たのではないか。