榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

松永久秀の将軍殺害、主君殺害、東大寺焼き討ちは、本当に史実なのか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2162)】

【読書クラブ 本好きですか? 2021年3月15日号】 情熱的読書人間のないしょ話(2162)

川の土手をセイヨウアブラナ(ナノハナ)が黄色く染めています。チュウサギ(写真6~10)が、ナマズと思われる獲物を捕らえ呑み込むまでを目撃することができました。コサギ(写真11~13)は小魚を銜えています。

閑話休題、『松永久秀』(金松誠著、戎光祥出版・シリーズ<実像に迫る>)は、極悪人の戦国武将という松永久秀のイメージは史実とは異なると主張しています。

久秀の悪いイメージを形作っているのは、将軍・足利義輝を殺害した、主君・三好義興を殺害した、東大寺大仏殿を焼いた――という3つの行いです。これに対し、著者は、同時代に記された古記録や古文書などの一次史料に基づき、久秀の実像にぐんぐんと迫っていきます。

「(永禄6<1563>年)6月に(三好)長慶の嫡男三好義興が病に倒れ、8月25日、芥川城で没した。享年22の若さであった。『足利季世記』によると、近くに召し仕える輩による毒殺もしくは、久秀の仕業との風聞が記されているが、久秀は義興の病を知り、悲嘆に暮れていることから(『柳生文書』)、少なくとも久秀による毒殺説は俗説に過ぎない」。

「(永禄)8年5月19日、(三好)義継等は将軍義輝を殺害する。義継・(三好)長逸・松永久通等が約1万の軍勢を率いて二条御所を攻め立て、義輝を自害に追いやり、母慶寿院、弟で鹿苑院院主であった周暠のほか、奉公衆を多数討ち取った。・・・そのとき、久秀は京都にはいなかった。久秀は、多聞山城にて義輝の弟で興福寺一乗院門跡であった覚慶(のちの足利義昭)を保護下に置いており、そのことを覚慶が久通に対して書状で伝えている(『円満院文書』)」。

「(永禄10年)6月27日に筒井順慶が(三好)三人衆に久秀との和睦を勧めるなど、関係改善が図られたが、功を奏さなかった(『多聞院日記』)。そして、この抗争は激しさを増し、10月10日に久秀が多聞山城攻めのため東大寺に拠っていた三人衆を攻め破った際、大仏殿に兵火がかかり、全焼するという事態を招く。・・・(『多聞院日記』によると)大仏殿の焼失は松永方が意図的に焼いたものではなく、『兵火の余煙』に伴うものであったようである。・・・久秀・三人衆いずれも、大仏殿の全焼には心を痛めたようで、翌同11年4月には京都阿弥陀寺清玉がその再興を支援したことに対して、久秀・三好長逸それぞれが謝意を表する書状を送っている(『阿弥陀寺文書』)」。

久秀は、憎(にっく)き織田信長に渡してなるものかと、大切にしていた茶釜平蜘蛛を木っ端微塵に打ち砕いてから自害したと伝えられているが、実態はどうだったのでしょうか。「(織田軍に追い詰められた)久秀は敗死するに至り、波乱に満ちた生涯に幕を下ろした。享年70であった。久秀の最期について、諸史料を検討してみよう。『信長公記』には「松永天守に火を懸け焼死』とあり、『多聞院日記』には、『松永父子腹を切り自焼しおわんぬ』とある。茶釜平蜘蛛に火薬を詰めて爆死したという説が一般的であるが、上記の史料ではそれについてはいっさい触れられていない。・・・おそらく、(かなり後年に記された)『川角太閤記』に記されたエピソードが徐々に盛り付けされ、久秀の爆死伝説が定着していったのであろう。そもそも、久秀自害の翌日、安土城へ『首四ツ』が運ばれていることから(『多聞院日記』)、火薬で頭が砕け散ったという説は成立しない」。

説得力に満ちた一冊です。