榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

平氏滅亡の立役者・源義経を死に追いやった兄・源頼朝は、冷酷な人物だったのか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1437)】

【amazon 『源 頼朝――武家政治の創始者』 カスタマーレビュー 2019年3月27日】 情熱的読書人間のないしょ話(1437)

ミツバツツジが桃色の花をまとっています。ローズマリーが薄青色の花を付けています。葉をこすると、いい香りがします。スノーフレークが小さな緑の斑のある白い花を俯き加減に咲かせています。チューリップが咲き始めました。ムラサキカタバミが桃色の花を付けています。ヴィバーナム・ティヌス(トキワガマズミ)が白い花で覆われています。我が家の庭の片隅で、デージー(ヒナギク)が咲き始めました。因みに、本日の歩数は10,504でした。

閑話休題、『源 頼朝――武家政治の創始者』(元木泰雄著、中公新書)は、源頼朝の生涯を丁寧に辿っています。

私が個人的に最も注目したのは、頼朝が冷酷な人物であったか否かという問題です。「頼朝を冷酷で、猜疑心の強い悪人とする見方が根強い。その最大の原因は、大功を挙げた弟(源)義経を理不尽に圧迫し、滅亡に追い込んだとされることにある。自由任官問題が虚構であるなら、両者が対立し、義経が(頼朝に対して)挙兵するに至った原因はどのようなものであったか。壇ノ浦合戦後の両者の関係を再検討することにしたい」。

「宿敵平氏討伐という比類なき大功を挙げ、賞賛されることを期待した義経は、頼朝の理不尽な怒りによって、思いも寄らない屈辱的処遇を受け、京に追い返されたしまったことになる。こうした『吾妻鏡』の記述を見れば、頼朝の義経に対する冷酷さが強烈に印象づけられるのも当然といえる。・・・そこで強調されているのは、親族に冷酷な頼朝であり、無辜の義経に対する処罰が源氏三代将軍の断絶を招いたことを示唆する。源氏将軍にかわる、北条執権政治の成立を正当化する『吾妻鏡』の一貫した編纂姿勢といえる」。

「後白河院の寵臣義経が院を頼って在京を望み、その保護を受けるのも当然といえる。後白河との軋轢も覚悟の上で、その義経をあえて鎌倉に召還しようとした頼朝の意図はどのようなものであったのか。赫々たる武勲を挙げて帰京した義経が、傲慢になるのも当然である。延慶本『平家物語』によると、義経は、やがて関東は自分のものになると揚言したとされ、頼朝の後継者を自負していたという。また朝廷にも、頼朝以上に義経を評価し、時代は義経のものとする動きもあったという。むろんこの記述の真偽は定かではない。しかし義経自身の思惑はともかく、京の救世主ともいうべき義経に対する朝廷の評価が高まるのも当然であった。また幕府内でも、まだ4歳の(源)頼家と比較して、義経を頼朝の後継者に相応しいとする見方が生まれていたことであろう。頼朝や、頼家の外祖父北条時政らの周辺に、義経に対する警戒が高まったものと考えられる。さらに頼朝は、西国武士を率いて平氏を討伐した義経が、後白河のもとで独自の軍事組織を構築し、頼朝に対抗する存在となる危険性も看取したのではないか。しかも、壇ノ浦から帰京した義経は、あろうことか平時忠の娘を室に迎えた。『平家物語』は、義経は機密文書を奪われる失策を犯したとするが、同時に平氏残党との結合の可能性も生じたことになる。頼朝にとって、義経が京に存在することは、様々な危険を有した。だからといって、頼朝は平氏追討の立役者である義経を、単純に危険視して無下に殺害するつもりなどはなかった。ただ、義経が京で独自の権力を築き、頼朝以上の名声を得ること、そして頼家を斥けて幕府の後継者となることは阻止しなければならない。その落としどころが、鎌倉召還であった。頼朝は鎌倉において義経を、(源)範頼と同様、一門として処遇するとともに、自身の統制下に入れようとしたのである」。

「しかし、義経には応じられるものではなかった。後白河の寵臣となって王権の保護をめざす彼にとって、京こそがその活躍を舞台であった。また頼朝と、平泉の藤原秀衡との緊張関係が継続する中、鎌倉での生活は針の筵とならざるをえない。そして、大きな勢力を有したばかりに、鎌倉において理不尽に殺された、上総介広常や、甲斐源氏の一条忠頼の先例が、義経の脳裏を過ったことであろう。のちに、穏便であった範頼でさえも粛清を免れなかったことを考えれば、たとえ鎌倉に帰ったとしても、義経に過酷な運命が待っていた可能性は高い。かくして、後白河の庇護を受けることで、義経は頼朝の意向を拒んだのである」。

「(義経が)院と結び頼朝の統制を逸脱することは、独自の官軍となることを意味した。唯一の官軍をめざしてきた頼朝にとって、こうした義経の動きは絶対に容認することはできなかった。そこには幕府の分裂、後継者をめぐる内紛、さらには幕府崩壊の危機さえも胚胎していたのである。幕府という新たな権力を守るためには、後白河と結ぶ義経の抑圧は不可避であった」。

「対立の背景を突き詰めれば、後継者問題の不安定さなど、鎌倉幕府の組織が、まだ幼弱だったことに行き着く。・・・頼朝は落としどころを考え、あくまでも冷静に対応しようとしたといえる。しかし、兄弟の軋轢は大きな政治問題を惹起し、悲劇的な結末を迎えるのである」。この著者の結論は、いささか頼朝の肩を持ち過ぎというのが、私の率直な見解です。周辺を含めて、頼朝の生涯が的確に描かれている一冊であることは認めますが。

本書に掲載されている源頼朝坐像――甲斐善光寺所蔵の木像。作者不詳。『文保3年』(1319年)の銘があり、近年の研究では、本人の面影を伝えている可能性がある唯一の頼朝像とされる――の厳しい顔つきを見ると、この人相手では義経もさぞ苦労したことだろうと思わされます。