『平家物語』の作者は藤原行長で、慈円の支援を受けて書き上げた・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1021)】
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閑話休題、『平家物語、史と説話』(五味文彦著、平凡社ライブラリー)では、『平家物語』の著者は誰かという興味深い問題が論考されています。
著者の論考の結論は、「『平家物語』は、八条院に仕え、九条良輔に仕え、出家後には慈円に扶持された藤原行長が作者であった、と考える。ここで『平家物語』というのは、『徒然草』の言う所の<平家物語>であって、今日の我々が目にする『平家物語』諸本ではなく、そのもとになった所の、所謂<原平家物語>である」というものです。慈円は歴史書『愚管抄』を著した摂関家出身の天台座主で、良輔の叔父に当たります。
「『徒然草』(226段)に『平家物語』の作者と記されている『信濃前司行長』は、藤原行隆の子行長であろうといわれている」。著者は、『徒然草』に収集された説話は、信用が置けると考えています。
「(仕えてきた)良輔の突然の死が行長に極めて大きな衝撃を与えたことは想像に難くない」。「一方、これも良輔の死に大きな衝撃を受けていた慈円は、良輔に側近く仕えていた行長の出家をみて、あわれみ扶持したのであろう」。
執筆場所について。「行長の『平家物語』執筆の場」は、「慈円によって『仏法興隆』の道場、『怨霊滅罪・国土安穏』の祈祷の道場として建てられた大懺法院」であったというのです。
執筆目的について。「一つに平家の怨霊を鎮めようという目的から建てられたと言える」大懺法院で、「平家の怨霊を鎮めるための物語(=『平家物語』)は作られたと言えるのではないか」。
『徒然草』226段に「行長入道、平家物語を作りて、生仏(しょうぶつ)といひける盲目に教へて語らせけり」という一節がありますが、「琵琶法師の語り自体に怨霊を鎮める意図がこめられていたのである」。
執筆時期について。「『平家物語』は明らかに、承久の乱による後鳥羽院の隠岐配流と後高倉院政の成立を踏まえて叙述していると言えよう」。
各種史料を渉猟して構築されている論考だけに、著者の「『平家物語』の作者=藤原行長」説は説得力があります。