藤原信西の短期政権が中世の始まりを告げたという仮説・・・【山椒読書論(50)】
書店で目指す本を探している最中に、「私も読んでほしい!」という強力な信号を発している本に、思わず手が伸びてしまった。『平家物語、史と説話』(五味文彦著、平凡社ライブラリー)である。
日本の中世史に関心のない人には面白い書とは言えないだろうが、期待を裏切らぬ内容に私は大いに満足したのである。その理由は、3つある。
第1は、『平家物語』を文学作品でなく、歴史資料として吟味しようとしていること。この本は、著者の初期論文集ともいうべきものだ。今日、我々が目にする『平家物語』諸本(覚一本、屋代本、長門本、延慶本、四部合戦状本、源平闘諍本、源平盛衰記など)の基となった、いわゆる「原平家物語」の作者は、『徒然草』226段で、「この行長入道、平家物語を作りて、生仏といひける盲目に教へて語らせけり」と名指しされている「信濃前司行長」(藤原行長)だという判定に至った検証過程が興味深い。
第2は、後白河天皇の黒幕として、3年余という短期間ではあったが、保元の乱後に政治の実権を掌握した藤原信西の政権こそが中世の始まりを告げた政治体制、すなわち、その後の源頼朝の武家政権の先駆けをなすものであったと、著者独自の主張を展開していること。
後白河天皇の乳母の夫(乳父<めのと>)であり、当代きっての学識者であったとしても、傍流貴族に過ぎなかった信西が、何を目指して、また、いかにして信西政権を構築したのか、それはどのような構造であったのか、次々と実施した具体的な政策とは何であったのか、世の中にどのような影響を与えたのか、そして、彼の権力はなぜ失墜したのか――が生き生きと描かれている。
信西の多方面に亘る政策は芸能の世界にも及んだ。例えば、『徒然草』225段には、白拍子舞の起源について、「通憲(信西)入道、舞の手の中にある興ある事どもを選びて、磯の禅師(静御前の母)といひける女に教へて舞はせけり」と記されている。
第3は、信西が自殺に追い込まれることになった平治の乱について、それまで信西を強力に支えてきた平清盛こそがこの乱の陰の張本人だと指摘していること。著者は、その根拠を4つ挙げているが、なかなか説得力がある。