榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

24歳で、ナチスの強制収容所で命を絶たれた、フランクルの妻のこと・・・【情熱の本箱(187)】

【ほんばこや 2017年5月21日号】 情熱の本箱(187)

夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録』(ヴィクトール・E・フランクル著、霜山徳爾訳、みすず書房)は、私にとって最も大切な本である。著者のヴィクトール・E・フランクルは、ナチスの強制収容所という死と隣り合わせの逆境を生き延びる。彼は、精神的、肉体的にぎりぎりの状況下にあっても、酷寒の屋外での辛い行進や労働の最中に、心に思い描いた最愛の妻と会話を交わし続けることで、彼女から慰められ、勇気づけられたのである。
  
フランクル「夜と霧」への旅』(河原理子著、朝日文庫)で、多くのことを知ることができた。

収容所に入れられる前の出来事。「勤務していたユダヤ人専門ロートシルト(ロスチャイルド)病院で知り合って、(収容所に入れられた1942年9月の)前年暮れに結婚したばかりの妻ティリーは、21歳」。

「『夜と霧』に書かれた強制収容所体験は、すべてアウシュヴィッツでのことだ、と思っている人がいるかもしれない」。私も長いこと、そう思い込んでいたのだが、フランクルは、37歳から40歳にかけての2年7カ月間に、テレージエンシュタット、アウシュヴィッツ第二収容所ビルケナウ、ダッハウ強制収容所の支所であるカウフェリング第三とテュルクハイム(カウフェリング第六)――と4つの収容所を体験しているのだ。アウシュヴィッツにいたのは4日間だけである。

テレージエンシュタットでの出来事。「監視人は、そのやり方が気に入らないと言ってフランクルを銃のようなもので突き飛ばして、殴った。あちこちけがして、引きずられるようにして戻ったフランクルを、妻のティリーが見つけて介抱した――彼女は看護師だったから」。

愛する人と一緒にいたいというティリーの心情が切ない。「回想録などによると、テレージエンシュタットで、まずフランクルが東へ移送されることが決まった。ティリーは軍需工場で働いていたのでテレージエンシュタットに残れるはずだったのに、フランクルと一緒に行く道を選び、自ら移送を願い出たという。『妻は、私が知らないうちに、私の意志に逆らって、自分の意志で移送に申し込んでいたのです』」。

アウシュヴィッツでの出来事。「フランクルと妻のティリーは、『夜と霧』によると、ビルケナウに到着した日の夕刻には、すべての所持品を置いたまま貨車から降りるように命じられて、男女別々にされた」。

「『夜と霧』では生身の妻についてあまり語っていないが、回想録でフランクルは、ティリーがアウシュヴィッツに着いてなお陽気にふるまってみせたこと、そのティリーに別れ際に言い聞かせた『どんな犠牲を払っても生き延びるんだぞ、どんな犠牲を払っても』というメッセージに込めた真意を、語っている。ふたりは、10月23日のティリーの24歳の誕生日を、アウシュヴィッツ・ビルケナウで、別々に、迎えた。『生涯忘れられないことがある』と『夜と霧』につづった誕生日の出来事は、美しく切なく、胸にしみる」。

カウフェリング第三、テュルクハイムでの出来事。「夜明け前の、氷のように冷たい風のなかを、工事現場へ行進させられる。蹴りを入れられ、銃床で追いたてられ、ふらつきながら歩いていく。仲間がふと『ねえ、君、女房がおれたちのこのありさまを見たらどう思うだろうね・・・! 女房たちの収容所暮らしはもっとましだといいんだが』とつぶやいた瞬間、妻の姿がまざまざと浮かんだ。その生死を知らなくても、妻と会話し、至福に満たされた。愛は、生身の存在とはほとんど関係がなく、愛する人の精神的な存在、つまり本質に深くかかわっているということを、フランクルは知る。『わたしはときおり空を仰いだ。星の輝きが薄れ、分厚い黒雲の向こうに朝焼けが始まっていた。今この瞬間、わたしの心はある人の面影に占められていた。精神がこれほどいきいきと面影を想像するとは、以前のごくまっとうな生活では思いもよらなかった。わたしは妻と語っているような気がした。妻が答えるのが聞こえ、微笑むのが見えた。まなざしでうながし、励ますのが見えた。妻がここにいようがいまいが、その微笑みは、たった今昇ってきた太陽よりも明るくわたしを照らした。・・・そのとき、ある思いがわたしを貫いた。・・・人は、この世にもはやなにも残されていなくても、心の奥底で愛する人の面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれるということを、わたしは理解したのだ。・・・収容所に入れられ、なにかをして自己実現する道を断たれるという、思いつくかぎりでもっとも悲惨な状況、できるのはただこの耐えがたい苦痛に耐えることしかない状況にあっても、人は内に秘めた愛する人のまなざしや愛する人の面影を精神力で呼び出すことにより、満たされることができるのだ。わたしは生まれてはじめて、たちどころに理解した』」。

「それから二度と会えなかったティリーへの哀切な思いは、後にさまざまな人にあてて書いた手紙や詩に、くりかえし記されている。『夜と霧』で、解放後の心理について、『収容所で唯一の心の支えにしていた愛する人がもういない人間は哀れだ。ドアを開けてくれるはずの人は開けてくれない』と三人称で書いていたのは、フランクル自身の体験だったのだろうということも、これらの手紙から伝わってくる」。

フランクルが私たちに伝えたかったこと。「フランクルは、強制収容所で、期限がわからないことにみな苦しんだと書いている。クリスマスには解放されるとか、『3月30日に解放されると夢でお告げを受けた』などと信じて、かなえられなかった人たちは、急速に抵抗力を失い、いのちを落としていった。だからこそ、生きる意味に目を向けるように、仲間に話しかけた。人には決して奪われぬものがある、と。一つは、運命に対する態度を決める自由。もう一つは、過去からの光だ」。

「どんな運命に見舞われたとしても、人は運命に翻弄されるだけの存在ではなくて、不条理を引き受け、運命に対してどんな態度をとるか決める精神の自由があるのだ、とフランクルは説いた」。

解放後の出来事。「1945年4月にアメリカ軍により、ドイツ南部の収容所から解放されて、夏にウィーンに帰り着く。しかし、再会を夢見て帰ったウィーンで、母はアウシュヴィッツのガス室に送られてすぐ命を奪われ、妻は、アンネ・フランクのいたベルゲン・ベルゼン収容所に移されて、解放後に死亡していたことを知る」。

21世紀になってから分かったこと。「21世紀になって私たちは、強制収容所や移送の記録を、さまざまな形で知ることができる。ベルゲン・ベルゼンの犠牲者名簿『記憶の書』(2005年版)によると、妻のティリーことマティルデ・グローサー・フランクルは、ベルゲン・ベルゼンで1945年4月15日に解放されたが、そのまま5月に亡くなったようだ。死亡欄にあるのは『1945年5月 ベルゲン・ベルゼン』だけ。日付はわからない」。