榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

入門書の助けを借りて、ハイデガーの『存在と時間』に挑戦してみた・・・【情熱の本箱(212)】

【ほんばこや 2017年10月13日号】 情熱の本箱(212)

マルティン・ハイデガーが37歳の時、出版された、難解といわれる『存在と時間』に挑戦してみた。と言っても、『存在と時間』そのものには歯が立たないだろうから、『ハイデガー「存在と時間」入門』(轟孝夫著、講談社現代新書)という入門書の力を借りようという魂胆である。

この挑戦に当たっては、予め3つの作戦を立てた。第1は、『存在と時間』は未完で、一番重要なことは書かれずに終わってしまったとか、これより後に出版された著作と『存在と時間』の思想には懸隔があるといった識者の見解には耳を塞ぐこと。第2は、ハイデガー独特の哲学的言い回しや用語にはあまり拘わらずに、一気に本丸を衝くこと。第3は、ハイデガーが『存在と時間』で一番言いたかったことは何かを、我武者羅に掴み取ること。

乱暴にまとめることが許されるとして、私の理解するところでは、ハイデガーが言いたいことは、こういうことではなかろうか。人間は死を恐れるあまり、日常生活では忘れた振りをするなど、敢えて死を考えないようにして生きているが、こういう生き方は間違っている。生とは、死を含めて生なのだ。そう覚悟を決めて生きれば、人生を充実させることができる。その際の拠り所とすべきは良心である。

私の理解が独りよがりで、『存在と時間』の本質に対して誤解を生じさせるようなことがあってはいけないので、『ハイデガー「存在と時間」入門』の解説を挙げておく。

「現存在の存在は死によって完結するのだから、この死という終わりこそが、まさに現存在の全体を境界づけるものである。したがって、現存在の全体存在を解明するためには、死を実存論的に規定しなければならない、こうハイデガーは述べる。このように『存在と時間』では、現存在をその全体性において捉えるという、あくまで実存論的な問題設定として、死が視野に入ってくる」。

「ハイデガーは、現存在とは生まれたときからすでに死にうる存在であることに注目する。生きているということは死にうるということなのであり、『死は現存在が存在するやいなや引き受ける一つのあり方』なのである。ハイデガーはこのように、生そのものに死が本質的に属していることを指摘した上で、現存在とは『死へと関わる存在』であると規定する。つまり生きているということ自体が、すでに死との関わりそのものなのだ。現存在の終わりは、本人にとって、そのものを目の当たりにするような仕方で経験されることはない。しかしわれわれは、実際に経験するまでもなく、自分が死にうることを知っている。だからこそ、われわれは死を恐れ、それを回避しようとしたり、もしくは自殺という仕方によってあえてそこに赴いたりもするわけだ。このように死は、われわれが死んだときにはじめて関わりをもつものではなく、生きているうちからすでにわれわれのあり方を、何らかの仕方で規定している。つまりそのようなものである死にどのように向き合うかが、われわれの生き方の質を定める。これからハイデガーが行おうとするのは、すでにわれわれが生きているうちから死に関わっていることを認めた上で、そうした死がわれわれに対してどのように現れているのかを現象学的に記述することである」。

「『他ならぬ自分だけの、他から隔絶した、追い越しえない可能性』は、もちろん現存在が任意に選び取ることのできるようなものではない。むしろ現存在が実存する限り、現存在は否応なしに死の可能性を負わされている。現存在がこのように死の可能性に委ねられていることは、理論的な知によって把握されることではなく、不安というもっとも根源的な情態においてはじめてあらわになる。すなわち不安とは、根本的には死に対する不安なのだ」。

「日常的な世界では、『ひとは結局、いつかは死ぬであろうが、さしあたり自分自身はまだ見舞われていない』というように理解している。日常的な現存在は、自分自身の可能性である死をまだ存在しないものと捉えている。つまり死を自分の外で起こる出来事として、いわばそれを外在化するのが、日常的現存在による死の把握の特徴だと言えるだろう。ひとは死を『世界のうちで起こる出来事』に歪曲してしまう」。

「現存在は、この死の可能性に対しては、つねに差し迫ってくる、おのれの意のままにはできない可能性として、ただひたすらに耐え抜くという仕方でしか関わることはできない。すなわち死は、いつでも訪れうるものとして受け止めなければならないのだ」。

「現存在は『死に対する自由』において自分自身であることができるのである。このように死に対して自由になることは、究極の自己放棄を意味する。そのことによって、自分一個の利害を離れ、今、自分の真になすべきことへと開かれることが可能となる。要するに、現存在は死を辞さないということ、まさに死ぬことができるということにおいて、真に自分自身でありうるのだ」。

「死に値することとは何なのか。これに対するハイデガーの答えは、良心の命ずるところに従うことである」。

因みに、頻出する「現存在」という用語を、私は自己流で「私という人間」と解している。