榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

ハイデガーに惚れてしまった木田元は、性格の悪いハイデガーとどのように付き合ったのか・・・【情熱の本箱(330)】

【ほんばこや 2020年7月21日号】 情熱の本箱(330)

日本の最終講義』(鈴木大拙他著、KADOKAWA)は、鈴木大拙を始めとする23人の最終講義集である。

いずれの最終講義も、さすがと思わせる興味深い内容だが、私にとって一番勉強になったのは、木田元の「最終講義 ハイデガーを読む」である。

「もともと私はハイデガーの『存在と時間』を読みたい一心で東北大学に入って哲学の勉強をはじめたのですし、今でも『ハイデガー全集』の新しい巻が出ると待ちかねるようにして読んでいますから、そう言ってあまり間違いはありません。・・・いまだにハイデガーがいちばん面白いと思っていますから、ハイデガーを読みつづけてきたという言い方で、自分のこれまでやってきたことを要約してよいと思います」。

「斎藤信治さんの論文集『実存の形而上学』で、ハイデガーというドイツの哲学者が、キルケゴールとドストエフスキーの強い影響を受けて『存在と時間』という本を書き、そこで時間という視点から人間存在の分析をしているということを知りました。・・・そうした時間的構造に着目して人間の存在構造を捉えようとしているのだとすれば、この『存在と時間』こそ私の探しもとめている本だと思われました。これを読めば、自分の絶望にももう少しうまく対処できそうに思われ、なんとしてもこれを読まずにはすまされない気持になりました」。

「ハイデガー自身、『存在と時間』は人間存在の分析を目指すものでもないし、実存哲学の書でもないと終始言いつづけているのですから、それを実存哲学の書として読んで、当てがはずれたと言うのも妙なものです。私は、最初読んだときから、どうもそういう読み方は、ハイデガーの意に反しているらしい、ハイデガー自身の言いたいことは、もっと別のことらしいという感じだけはもっていました。しかし、それがなにかはどうもぴったりとは分かりませんでした」。この正直さが、木田の魅力である。

「日本には、学問を学ぶと共に、人格的にも師に同化しようとする儒学の伝統があるからでしょうか、自分の勉強している哲学者の人柄が悪いと、ちょっと困ってしまいます。ですから、ハイデガーのばあいも、彼が1933年、ナチス政権樹立の直後にフライブルク大学の総長になり、ナチスに入党し、いかにもヒットラーへの忠誠を誓うような『ドイツ大学の自己主張』という就任講演をおこなったという事実を、ドイツでも日本でもハイデガー信奉者たちは、一種の国内亡命だの、彼が引き受けなければ事態はもっと悪くなっただのと言って弁護しようとしました。しかし、どう見ても、事実は事実、ハイデガーという人は性格が悪い。弁護の仕様もありません。私も、知れば知るほど、ますますこの人が嫌いになってきました。しかし、次から次に出てくる講義録なんかを読むと、やっぱり思想はすごい。プラトンやアリストテレスやライプニッツやシェリングのテキストを読み解いてみせる力量には驚嘆させられるばかりです」。

「西洋哲学史を見なおすといっても、ハイデガーが考えているのはなんとも思いきったことで、殻はプラトン/アリストテレスからヘーゲルにいたるまでの西洋哲学の全体が間違っていたのではないか、少なくともおかしな考え方、不自然な考え方だったのではないかと考えているのです。しかも『哲学』と呼ばれてきたこの不自然な考え方が、西洋文化形成の青写真の役割を果たしてきた、そのため西洋文化が全体としておかしな方向に形成されることになった、とそんなふうに考えているらしいのです。いったい、なにと比べておかしいのか、不自然なのかといいますと、プラトン/アリストテレスよりももっと古い時代のギリシアの思想家たち、ふつう『ソクラテス以前の思想家たち』と呼ばれている人たちの書き残したものから読みとれる、古い時代のギリシア人の普通のものの考え方と比べてみてなのです。つまり、彼は、『ソクラテス以前の思想家たち』までふくめた壮大なパースペクティヴのうちにプラトン/アリストテレス以来の西洋哲学を据えて、これを相対化して見ようと企てていたことになります。そうしたパースペクティヴをハイデガーはどこから手に入れたか、と申しますと、これは明らかにニーチェからなんですね」。このハイデガーが目指していた者が何かという鋭い指摘には、目から鱗が落ちた。しかも、ニーチェがハイデガーにここまで強い影響を与えていたとは! そして、個人的なことだが、その死の捉え方を通じて、私が信奉するエピクロスはプラトン/アリストテレス以降の哲学者だが、ハイデガーはエピクロスをどう考えていたのか、ぜひとも知りたいところである。

「彼ら(=ニーチェとハイデガー)が西洋哲学批判の拠点としたのは、古いギリシアの自然観だったと言ってよいと思います。しかし、すべてのものをおのずから生成し消滅してゆくものと見るこの自然観は、万物を『葦牙の如く萌え騰る物に因りて成る』と見る古代日本人の自然観――そうした生成の原理を『ムスヒ』と呼んでいた『古事記』の最古層に見られるような自然観――ときわめて似たところがあります。だからこそ、彼らの言わんとすることが、私たちによく分かるのではないかと思います。世界は神が創造したなんていうキリスト教の信仰のなかで2000年近くも生きてきた西洋人には、ニーチェやハイデガーの言うことが意外に呑みこみにくいのかもしれません。私は、こんなふうに考えることによって、つまり『反哲学』を堂々と旗印に掲げることができると分かってから、日本で西洋哲学の勉強をするということにそれほど負(ひ」け目を感じないですむようになりました」。この古代日本人の自然観に通じるという指摘にも、目から鱗が落ちた。この箇所を読んで、ハイデガーは多分、エピクロスには共感を覚えただろうと、勝手に考えることにした。

本書のおかげで、ニーチェ、ハイデガー、木田に、ますます親しみが増した私は、ニーチェ著、手塚富雄訳の『ツァラトゥストラ』を書斎の書棚から引っ張り出してきたのである。