ヒトの脳がトキソプラズマに操られているというのは本当か・・・【情熱の本箱(265)】
「ヒトの脳がトキソプラズマに操られている」と、『心を操る寄生生物――感情から文化・社会まで』(キャスリン・マコーリフ著、西田美緒子訳、インターシフト)には、俄かには信じられないことが書かれている。
チェコのプラハのカレル大学の進化生物学者、ヤロスラフ・フレグルが、ネコの寄生生物である単細胞の原生生物、トキソプラズマ原虫(Toxoplasma gondii)がヒトの脳に棲み着き、ヒトの思考や行動をコントロールしていると主張しているのだ。そして、フレグルは自分もトキソプラズマに感染しているというのである。「その種はネコの体内でのみ有性生殖でき、糞に混じって外に出るため、ネコのトイレの掃除が人間へのごく一般的な感染経路になっている。どんな方法であれトキソプラズマは実際に自分の脳に入り込んでおり、それが自分の性格を変えて危険嗜好を強めていると、フレグルは私(著者)に言った。さらに自分の研究から、この寄生生物は何百万人もの人々の脳をいじくりまわし、交通事故、統合失調症などの精神疾患、さらに自殺まで増やしている可能性があると考えるようになったようだ」。
「フレグルがこの珍しい研究分野に進んだきっかけは、1981年に『延長された表現型』に書かれた一節と出会ったことだった。崇拝していた科学者のひとり、イギリス人のリチャード・ドーキンスが出版したばかりの本で、その一節には、脳に入り込んだ吸虫の命令に従って葉にのぼる自殺アリのことが説明されていた」。
ネズミの仲間は一般的に食べ物を漁りながら地面に落ちているネコの糞に触れてトキソプラズマ原虫に感染する。そのネズミがネコに食べられると、ネコの腸内でこの微生物が繁殖し、糞と一緒にまた地面に落ちる。こうしてトキソプラズマ原虫はグルグル回ることになる。ネコは素早く動くものに引かれるから、寄生生物がネズミをいつもより多く走り回るよう仕向けているのではないか、とフレグルは考えたのだ。
トキソプラズマによる操作の仮説を検証するために、フレグルはヒトを対象にして、この寄生生物が宿主の思考や行動をどのように変化させるかをメルクマールに、感染している被験者と、していない被験者の心理学的な相違点を探ることに取り組んだのである。「この原生動物に感染している人はしていない人にくらべ、男女ともに、自分が催眠術でコントロールされる可能性があると信じる割合がはるかに高かった。また、さし迫った脅威に対してゆっくりまたは従順に反応し、危険な状況でもほとんど、またはまったく恐怖を感じないと答える傾向も、はるかに高かった」。その結果、感染者は非感染者に比し、交通事故を起こす比率が遥かに高いことが判明したのである。
フレグルは、統合失調症の患者はトキソプラズマに感染している割合が高いことも示している。「試験に参加した統合失調症の患者はわずか44人で、非常に少なかったにもかかわらず、結果に曖昧な点はなかった。MRIの画像によれば、被験者のうち12人で大脳皮質の一部から灰白質が失われており――不可解ではあるが、この疾患ではそれほど珍しくない現象だ――その12人だけがトキソプラズマに感染していたそうだ」。すなわち、トキソプラズマが統合失調症の引き金になるケースがあることが強く推測されるのだ。
フレグルが研究に没頭している頃、フレグルの研究を知らずに、イギリス人の科学者、ジョアン・ウェブスターも同じ結果に到達していた。「ウェブスターは、トキソプラズマによってラットがネコのにおいを嫌悪する度合いが薄れるだろうという仮説を立てていたそうだ。だが『まったく驚いたことに、嫌悪が薄れただけじゃなくて、実際には引きつけられるようになっていた。ラットが過ごした時間は、ネコの尿のにおいがする場所のほうが長かったのだから』と話す。・・・トキソプラズマがこうした目を見張る離れ業をやってのける方法を探ろうと、彼女のチームはこの原生動物に蛍光マーカーを組み込んで追跡し、感染したネズミの脳のどこに行くかを突き止めることにした。・・・ウェブスターは、トキソプラズマはまるで散弾のように脳全体に広がるが、その動物の感情や本能に影響を与えるような重要な領域にたまたま迷い込んだときだけ、行動の変化を引き起こすと考えるようになった」。
「2009年になるとリーズ大学の寄生生物学者グレン・A・マッコンキーがトキソプラズマの隠れた才能を明らかにし、解明の糸口をつかむことに成功する。・・・研究を続けるうちに、マッコンキーはトキソプラズマ原虫だけが脳を強く好んでネズミの行動を変えることに気づいたので、トキソプラズマ原虫には動物の神経系との交信を可能にする神経化学物質を生産するようコード化された遺伝子があるかもしれないと考えた。・・・そのような遺伝子がトキソプラズマ原虫のゲノムには見つかり、マラリア原虫の配列には対応する遺伝子が見つからなかった。興味深いことに、その遺伝子はドーパミンの生産に関与するタンパク質にコード化されていた。ドーパミンは快楽(セックス、ドラッグ、ロックンロールを考えるとよくわかる)に中心的役割を果たす神経伝達物質だが、不安のような強い感情にもかかわっている。『ドーパミンの働きが、感染したラットの観察結果とあまりにもピタリと一致したのが衝撃だった』と、マッコンキーは話す。トキソプラズマに感染したラットは過活動で、用心深さをなくし、ネコのにおいへの恐怖感が減っていた。事実、敵のにおいの何かが喜びをもたらしているにちがいなかった。研究者のあいだでは40年も前から、統合失調症に悩む人のドーパミンレベルの上昇が知られており、それは灰白質減少の傾向とならぶこの病気の奇妙な観察結果として、医師たちを長いこと悩ませてきた。宿主の脳に身を隠したトキソプラズマ原虫が、この化学物質を作りだしているのだろうか? マッコンキーとウェブスターは協力して解明にあたることに決めた。そして2011年に答えを得る――トキソプラズマ原虫が居ついたニューロンは、ほかの3倍半も多くドーパミンを生産していたのだ。その化学物質が、実際に感染した脳細胞のなかにたまっているのを見ることができた」。
「別の研究者たちがトキソプラズマを自殺と関連づけはじめた。その中心はメリーランド大学に所属するルーマニア生まれの精神科医、テオドール・ポストラチェだ。・・・彼はトキソプラズマのシスト(=オーシスト)が自殺を引き起こす要因になっている場合があるかもしれないと考え、広くヨーロッパの協力者の助けを借りてその理論を探求することにした。するとヨーロッパの25か国で、女性の自殺率が各国のトキソプラズマの感染率に比例して上昇していることが明らかになった」。デンマーク人女性45,271人を対象にした前向き(過去に遡らず、ある時点からの情報を集めていく)臨床試験(=コホート研究)でも、同様の結果が得られている。
不幸なことに、トキソプラズマに感染してしまった場合、脳から寄生生物を追い出したいと思っても、今のところ医師ができることはほとんどない。この寄生生物の卵のようなオーシスト(接合子嚢)は厚い殻に覆われていて、ほとんどの薬ではビクともしないからだ。研究者たちは、トキソプラズマ原虫はマラリアを引き起こす原生動物と近い親類なので、研究の主眼をマラリア治療薬の選別に置き、その中からトキソプラズマのオーシストに効果があるものを探している。
愛猫家にとっては、フレグルのこの言葉が救いとなるだろう。「オーシストがネコの糞に混じって外に出てきたあと、感染するようになるのは3日から5日ほど空気にさらされてからだ。それより短い周期でカウンターやテーブルを拭き、ネコのトイレを掃除したあとは必ず手を洗うようにすればよくて、比較的安全だね。感染したネコからトキソプラズマのオーシストが出てくるのは1回だけだ。そして同じネコが2回感染することはないので、飼い主にトキソプラズマを感染させる可能性があるのはペットの一生に1回のみ、それもほんのわずかな期間ということになる。しかもすべてのネコが感染しているわけではない」。
この研究分野は「神経寄生生物学」と呼ばれるが、本書には、トキソプラズマ以外の寄生生物――マラリア原虫、デングウイルス、インフルエンザウイルス、狂犬病ウイルス、イヌ回虫(トキソカラ)、腸内細菌など――についての研究成果も詳しく記されている。
何とも衝撃的な一冊である。