榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

在原業平に掠奪された高貴な姫君・藤原高子は嬉しかったのか、それとも、怖かったのか・・・【情熱の本箱(311)】

【ほんばこや 2020年3月16日号】 情熱の本箱(311)

在原業平が相思相愛の高貴な姫君・藤原高子を密かに連れ出したというエピソードに、これぞ情熱的恋愛と喝采を送ってきた私だが、『男が女を盗む話――紫の上は「幸せ」だったのか』(立石和弘著、中公新書)を読んで、いろいろと考えさせられてしまった。

「物語文学は、掠奪によって始まる男女の物語を繰り返し描いてきた。『伊勢物語』の芥川の段は、昔男業平が二条の后、高子を掠奪し、芥川のほとりを逃走する物語である。『大和物語』安積山の段、『うつほ物語』の貴宮求婚譚にも嫁盗みは描かれており、『更級日記』の竹芝寺縁起、『狭衣物語』の飛鳥井の女君など、男が女を盗む話は枚挙にいとまがない」。

「物語の世界だけではない。実際にも、『盗む』ことから始まる男女関係があった。小野宮実資、源俊房、常陸掾平維幹らの事例が古記録類に残されており、『蜻蛉日記』には、藤原遠度が他人の妻となった前妻を盗み出して隠れ住んだことが書き記されている」。

本書で取り上げられている『源氏物語』の、光源氏が見染めた幼い若紫(後の紫の上)を掠奪した話も興味深いが、私にとって、より重要なのは、業平と高子の事例のほうである。

「芥川段は、およそ次のような話である。在原業平をモデルとした主人公が、のちに清和天皇の后となる藤原高子を盗み出し、芥川のほとりを逃走する、女は草の上に置かれた露を『あれは、何』と問うが、先を急ぐ男はそれに答える余裕がない、行く先遠く、夜も更けたので、女を荒れた蔵に隠し、男は蔵の外で番をする。しかし、蔵の奥では鬼が息を潜めていた。女は一口で喰われてしまった。男は嘆き悲しだが甲斐がなかったという話である」。

「芥川段の享受を支えてきたのは一見対照的とも言える2つの興味である。ひとつは『女を背負う男』へのロマンティックな幻想。いまひとつは『女を喰らう鬼』をめぐるサディスティックな幻想である。いわばロマンスと残虐という2つの要素が享受者の興味を煽り、芥川段は現代まで読み継がれてきた」。

「『男が女を盗む男』を『女が男に拉致される物語』と言い換えたとき、物語の相貌はどのように変容するだろうか。『盗む』と『拉致』の置換は、単なる言葉の置き換えにとどまらない。焦点化される主体が男から女に入れ替わり、『男が盗む物語』は『女が拉致される物語』へと組み変わる。同時に、これまで男のヒロイズムの背後に隠れ、見えにくかったものがあらわになる。それは、『男の暴力』と『女のまなざし』にほかならない。男が示すヒロイズムは(藤原氏の権勢に立ち向かう)反権力ではなく、女性支配の欲望を体現する限りにおいて、むしろ権力の側に位置しているのではないか」。こういう視点の転換があり得るとは、驚きだ。

「芥川段は構成上、前半と後半に分かれる。『白玉か』の歌までをひとつの区切りとして、前半は伝承性が強い歌物語叙述であり、主語は『男』『女』で通され匿名性が強い。後半は注釈的叙述に切り替わり、『実は、この話は・・・』と種明かしをしながら、前半の内容を解説する。『女』と『鬼』を、それぞれ『二条の后』と『堀河の大臣』『国経』に置き換えながら、伝奇性の強い前半を二条后章段に位置づけ直す役目を果たす」。

「(芥川段の解釈書が)掠奪の企図がはらむ暴力性を隠蔽するためには、女の陶酔はぜひとも確保しておきたい要素なのである。このことは、芥川段を取り巻く言葉に、原文にはない『女の同意』がことさら補われる現象と関わっている。芥川段をロマンティックに語り、男の行動を悲劇として位置づけるためには、女の『同意』と『陶酔』は、ぜひとも補われなければならない条件なのである。これがひとたび覆ると、男の身勝手な幻想と暴力性とが露呈することとなる。それを嫌う読者、つまりは芥川段をロマンティックに語りたい読者、男のヒロイズムに期待する読者の欲望が、女性の内面を捨て去り、その空白に女性の同意を補うことになる。こうした現象は絵画にも認められるもので、伝宗達作『伊勢物語図色紙』に描かれる『見つめ合う男女』の図様には、本文には描かれていない女の至福が、さりげなく補填されている」。著者の指摘どおり、この絵からは、男が女を背負い、見つめ合う二人の間に確かな愛情と深い信頼関係が紡がれていることが印象づけられます。

「後半の記述が解説する事実とは、路上で泣いていた高子を、兄弟である『堀河の大臣』藤原基経と国経が参内の途中に発見し、取り返したという顛末である。嫁盗みは失敗に終わった。そのこと自体は前半と矛盾しない、また、女の兄弟が奪い返したとあるのも、本来帰属すべき場所に連れ戻されたという意味で違和感はない、しかし、女の描き方については、どうしても前半の印象と齟齬をきたすのである。まずひっかかる点は、女がひとりでいたということにある。男はどこへ行ったのだろうか。女を連れて行くことをあきらめ、捨てて逃げたのだろうか。事情があって、ひとときその場を離れただけか。あるいは基経・国経の姿を認め、女を残して慌てて遁走したということなのか。さまざま考えうるが、いずれにしても男にとってはあまり良い印象ではない。前半に見られた情熱は微塵も感じられず、まして女を捨てて逃げたとなれば、もはや男の身勝手さに閉口するほかない」。

「また、女が泣いていたことも注目される。・・・女の涙を男に連れ去られたことへの抵抗の意思表示と取るならば、女は連れて行かれることを望んでいなかったことになる。女がひとりでいた理由も考え合わせるなら、言うことを聞かず、いつまでも泣き続ける女に手を焼き、男はあきらめ、女を道ばたに捨てたという展開が考えられる。いや、そのようなはずはない。あくまで女は同意していたとする立場をとるなら、女の涙は、男に捨てられたことへの嘆き、悲しみを表すことになる。男を信じ、身を委ねたにもかかわらず、男は女を捨てて身をくらました。それゆえの悲嘆ということになろう。いずれにせよ、女は見つかる前にすでに泣いているのだから、涙の原因は男との関係にあると考えなければならない」。著者の厳しい追及ぶりは、業平ファンの私をたじたじとさせる。敏腕の検察官のようではないか。

この著者の真に凄いところは、次の指摘にある。「後半を後人が附会した余計な書き入れと位置づけ、前半と切り離す理解法は、『伊勢物語』の洗練された知的遊戯を切り捨てることになる。後半部が描く、連れ去られた女の嘆きとふがいない男の姿とは、『伊勢物語』に構造化された、嫁盗み譚を反転させる、『伊勢物語』らしい遊びなのである」。知的遊戯としての歌物語――こういう解釈があったとは!