榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

貧農夫婦が大地主にのし上がる過程を描いた、骨太な年代記『大地』・・・【情熱の本箱(328)】

【ほんばこや 2020年7月10日号】 情熱の本箱(328)

読む前は、中国の暗い農民小説という漠然としたイメージを抱いていたが、何と、『大地(1』(パール・バック著、小野寺健訳、岩波文庫)は、清朝末期の貧農夫婦が大地主にのし上がる過程を描いた骨太な年代記ではないか。読み終わった瞬間に、本作品は、『失われた時を求めて』、『ゴリオ爺さん』と肩を並べる、私の外国文学ベスト3となったのである。

貧しいが働き者の農夫・王龍(ワンルン)は、この辺りで一番の大地主・黄(ホワン)家の奴隷で20歳の阿蘭(オラン)を妻に迎える。初夜の翌朝、「顔は不器量だし両手の皮膚も荒れてはいるが、大きな体の肉づきは柔らかで誰の手もついてはいない。彼はそれを思って笑った――昨夜闇に向かってあげたのとおなじ、短い笑いだった。だとすると、(黄家の)若旦那たちには台所で働いている奴隷の不器量な顔しか見えなかったのだ。女の体は美しかった。肉づきはゆたかとはいえず骨太ではあっても、丸みをおびていて柔らかだった。彼は急に女が自分を夫として好いてくれればいいがと思い、そう思ってから恥ずかしくなった」。

女奴隷の境遇は、後になって、阿蘭の口から、こう語られる。「『ぶたれるか男の寝床につれていかれるか、そのときしだいでね。それも一人の男のところだけじゃなくて、誰でもその晩抱きたがる男のところへつれていかれるんです。若旦那たちはこの奴隷だあの奴隷だと。喧嘩をしたりとりかえたり、<じゃ、今夜がおまえなら、あしたはおれだ>なんて言って、そのうち若旦那たちがみんな飽きた奴隷は、こんどは男の召使たちが、おさがりで喧嘩をしたりとりかえたり、それがまだ、奴隷が子供のうちなんです――綺麗な子だと』」。不器量な阿蘭は、こういう目には遭わずにすんだのだが。

阿蘭は、王龍に引けを取らぬ働き者で、次々と子を産む。初産の時、「彼女は陣痛の苦しみに耐えながら食事の支度までしたのだ! あれはそうざらにみつかる女ではない、と彼は心の中で思った」。「やがて、ほとんど誰も気がつかないうちに、女はまた畑にもどって彼のそばで働いていた。・・・いまでは、彼女は一日じゅう働いていた。子供は地面に敷いた綿のはみだした古い蒲団の上で眠っていた。その子が泣くと、女は仕事の手をとめて地面にぺたりと座り、乳房を出して子供の口にあてがう」。

妻と共に働き詰めに働いた王龍は、銀貨を貯め、黄家の土地の一部を買い取るまでになる。「彼の妻は――この誇り高い一族の台所奴隷だった妻は、何代ものあいだ黄家の土台をささえてきた土地の一部をわがものとした男の妻となるのだ。彼女にも、彼の考えていることは伝わったようだった。彼女は反対するのをやめて、こう言った。『買うことにしましょう。やはりお米のできる土地はたいしたものです。それに掘割も近いから、毎年水にも困りません。それはたしかです』。そして黒くて小さな目が明るくなることはなかったものの、ふたたび顔全体に微笑がゆっくりひろがったと思うと、彼女は長い沈黙のあとでこう言った。『去年のいまごろ、わたしはあのお屋敷の奴隷でした』。それから、夫婦はただこの思いに胸をふくらませて黙々と歩いていった。こうして王龍のものとなった土地は、彼の生涯を大きく変えることになった」。

王龍は、さらに土地を増やしていく。「彼はその銀貨で自分の心が望むものを買ったのである。いまや彼は広大で肥沃な畑の持主だった。新たに買った畑は、さいしょに買った畑の2倍の広さだった。それに、その黒々とした肥沃な土地より彼にとってさらに貴重だったのは、それがかつては王侯のような一家の持物だという事実だった」。

しかし、何カ月も日照りが続き、飢えに困り果てた王龍一家は、遂に、南方の都会を目指す。そこでは、物乞いをして食い繋いだり、子供を売ろうかというところまで追い詰められるなど辛酸を嘗める。こんな苦境にあっても、王龍には心の支えがあった。「『とにかく、おれには土地がある――おれには土地があるんだ』」。

苦労を重ねて、王龍一家は故郷に戻ってくる。「やがて王龍は元気よく畑仕事にかかると、寝食を忘れて精を出した。にんにくをはさんだパンを畑まで持っていって、立ったまま食べながら計画をねる始末だった。『ここには黒豆を蒔こう、ここは稲の苗代だ』。彼は日中でもあまり疲れると畔に寝ころんで、自分の土地のぬくもりを肌に感じながら眠った。家にいる阿蘭も、遊んではいなかった。自分で筵を垂木にしっかりしばりつけて屋根を作り、畑からとってきた土を水でこねて壁の修理をし竈をもう一度作りなおし、雨でできた床の穴を土でふさいだ」。

何年かに一度襲ってくる日照りや洪水、蝗の大軍による飢饉を乗り越え、王龍は着々と財産を増やしていく。「5年目も終わるころには、王龍はもうほとんど田畑へ出ることはなく、それどころかすっかり広くなった土地のおかげで、作物の販売や取引に、あるいは労働者たちの監督に、一日じゅう追われなくてはならなかった。彼にとっては、学問がなくて、駱駝の筆と墨で書いた書類の字が読めないことは大きな悩みだった」。そこで、息子たちに学問を学ばせることにする。

大金持ちになった王龍は、いつの世にもあることだが、妻以外の女に目を向ける。「王龍は、自分がはじめて阿蘭を見たような気がした。そして彼女が、どこの男が見ても活気がなくて下品な、むっつりした顔でどたどた歩きまわっている女にすぎないことに、はじめて気がついた。その髪が剛く赤茶けていて油気がないこと、顔は大きく扁平で肌理が粗く、造作が大きいばかりで美しさも明るさもないこと――こういうことにはじめて気がついたのである。眉は離れすぎていて淡いし、口は大きすぎる。手足もばかに大きくだらんとしていた。こうしていままでとはちがう目で妻を眺めていた王龍は、彼女に向かってどなりつけるように言った。『おい、誰だっておまえを見たら貧乏人の女房だと思うぞ。作男を幾人もやとってる地主の細君だなんて思やしない!』。彼が妻の容姿のことなど口にしたのは、これがはじめてだった。彼女は悲しげに鈍重な視線をかえした」。

王龍は茶館(娼館)の小柄で華奢で美しい娼妓・蓮華(リェンホワ)に入れ揚げ、やがて、妾として自邸の一角に住まわせる。自分が蒔いた種とはいいながら、妻と妾の間で冷戦が勃発する。「蓮華という女とその召使の杜鵑(トチエン)とが王龍の家にはいりこみながら、何も不和やいざこざのたぐいが起こらないはずはなかった。一つ屋根の下に女が二人いれば、平和というわけにはいかない。ところが、王龍にはあらかじめこれが読めていなかった。阿蘭のふくれっ面や杜鵑のとげとげしい表情を見れば何かあるとはわかったものの、彼はそれにいっこう注意をはらおうとせず、そもそも彼自身がまだ欲望に燃えさかっているかぎりは、他人のことなど眼中になかったのである」。

ところが、大地が王龍を正気に引き戻す。「そのとき彼のなかで叫ぶ声があった。愛よりも深い声が大地をもとめて叫んでいた。その声は彼の生涯のあらゆる声を圧して響きわたった。彼は身にまとった長衣を破るように脱ぎ捨て、天鵞絨の靴と白い靴下をむしりとるとズボンを膝までまくりあげ、たくましく気力にあふれた姿ですっくと立って、大声で叫んだ。『鍬はどこだ? 鋤を持ってこい。小麦の種子はどこにある? さあ、行こう、青(チン)君――男たちを呼べ――おれは畑に出るぞ』。南の都会から帰ってきたとき彼の心の病を癒してくれたのは、田畑での苦しい労働だったが、こんども王龍の愛の病を癒してくれたのは、黒々とゆたかな田畑の土だった。彼は足の裏にしっとりと濡れた土を感じ、小麦のために掘り起こした畦から立ちのぼる土の香気を吸いこんだ」。本作品の真の主人公は、王龍ではなく、大地かもしれない。

この後、妻と妾の確執に止まらず、王龍の家に入り込んできた叔父の恐るべき正体、長男の結婚、妻の病死、次男の結婚、長男の妻と次男の妻の反目、三男の家出、王龍が手を付けた18歳の奴隷女への熱愛――と、王龍の悩み事は尽きない。

しかし、時は流れてゆく。「町の家にいることが多くなった王龍は、中庭を歩きながら運命の変転を考えると、つくづく驚かずにいられなかった。かつては黄家の一族が住んでいたこの家に、いまは彼が息子たちやその妻といっしょに住んでいて、こんどは三代目になる子供が生まれようとしているのだ」。「やがて町の人びとは・・・かつては農夫の王と呼んでいた王龍のことを、いまは王大人とか富豪の王とか呼ぶようになった」。

やがて、さすがの王龍にも死が忍び寄ってくる。「いまの彼は、もはや食べ物と飲み物と土地のこと以外、何も考えていなかった。しかし土地といっても、もうそこから上がる収穫のことやそこに蒔く種子について思い煩うことはなく、土地そのものについて考えるばかりで、ときどきかがみこんでは手で土をすくうと、それを握りしめて座っていた。指のあいだの土は、命にあふれているような気がした。彼は土を握ったまま、満ちたりた気持でうつらうつらとその土を思い、そばにある(自分用に作らせた)棺を思っていた。土はすこしもいそがず、やがて彼がそこへ帰ってくる日をやさしく待っていた」。

本作品は三部作の第1部であり、王龍の子の代を描いた第2部『息子たち』、孫の代を描いた第3部『崩壊した家』へと物語は続いていく。

訳者の小野寺健は、私の敬愛する翻訳家であるが、彼の、「黄家の奴隷として不幸な少女期を送り、農夫王龍に嫁して不屈の忍耐力とたくましい生活の知恵を発揮しながら、寡黙な性格のゆえにさいごまで人間としての怒り、女としての恨みをほとんど口にすることもなく生涯を終わる阿蘭の生き方は、誰の心にも忘れえないつよい印象をのこすはずである。・・・飢饉をのがれて一家が南方の都会へ行ったとき彼女の発揮するたくましい生活力、金持になってもただ働くことしか知らず、やがて王龍が妾蓮華を家へ入れるようになっても恨みを言葉には出さない忍従の姿が、逆に(小さな真珠2粒という)わずかな宝石に女らしい執着をしめし、杜鵑だけは許そうとしない彼女の一面をきわめて印象的に照らし出している。そしてついに彼女が子宮癌で一生を閉じたとき、われわれは王龍とともに薄暗い台所に立って、あらためて彼女の苦しかった生涯に深い感動をおぼえるのだ。じつにみごとな人物描写と言うほかはない」という言葉には、深く頷くのみである。