榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

『若草物語』のオルコットは、その2年前に、スリラー小説『仮面の陰に』を書いていた・・・【情熱の本箱(377)】

【ほんばこや 2021年9月2日号】 情熱の本箱(377)

少女小説『若草物語』の印税で家の借金を全て返済した36歳のルイザ・メイ・オルコット。彼女が、その2年前に、生活費を稼ぐため、スリラー小説『仮面の陰に――あるいは女の力』(ルイザ・メイ・オルコット著、大串尚代訳、幻戯書房)を書いていたということを知り、早速、手にした。

19歳のジーン・ミュアが裕福な一族の娘のガヴァネス(家庭教師)として雇われるところから物語が幕を開ける。

「ミス・ミュアが話す姿はとても熱が入っており、可愛らしかった。きらきらと輝く太陽の光が黄色い髪、品のよい顔、そして伏せた目元を照らしていた。(一族の長たる)サー・ジョンはうぬぼれた人物ではなかったが、この見知らぬ娘からお褒めの言葉を聞いて嬉しくなっていた。それゆえに、彼女がどのような人物なのか、興味がいっそう増したのである。しかしあれこれたずねたり、彼女がはっきりと意識していないことを言わせて恥じ入らせるようなことは、育ちのよいサー・ジョンには出来なかったので、いずれ機会があったときにわかるままにまかせることにした」。

「彼女はそこで口をつぐむと、半ば恥ずかしそうに、半ばほっとしたような瞳で若者(この屋敷の次男・ネッド)を見たが、それはどんな言葉よりも雄弁に、語られなかった言葉を伝えていた。若者は21歳にもなっていたが、まだ幼いところがあり、ミス・ミュアのもの言いたげな瞳が彼の目と合った後にそっと下を向くと、彼の日焼けした頬にいささか赤みがさした」。

「数週間のうちは、コヴェントリーの屋敷はひどく単調ではあるが、平穏さにおおわれていた。しかし、目にも見えず、存在すら知られていない嵐が生まれつつあった。ミス・ミュアが来たことで、誰しもなにかしらの変化が起きていた――もっとも、どのように、そしてなぜ変わったのか、説明できる者はいなかったのだが。でしゃばることもなく、控えめな物腰にかけては、ミス・ミュアの右に出るものはいなかった。ミス・ミュアは(ネッドの妹)ベラの世話にあけくれ、ベラは彼女を慕い、楽しそうにしているのはガヴァネスとともにいるときだけだった。ミス・ミュアはいろいろな方法で(ベラの母)コヴェントリー夫人にやすらぎをもたらす術を知っており、夫人がこれほどの看護人はどこにもいないと言い切るほどだった。彼女は頭の回転の速さと、女性らしいいたわりをもって、ネッドを面白がらせ、興味をそそり、そして彼の心を勝ち取った。(ネッドの従妹)ルシアは彼女の能力に敬意を払うと同時に、妬ましくも思っていた。不精者の(ネッドの兄)ジェラルドは、相変わらず彼女から避けられていることに苛立っていた。一方で(ネッドのおじ)サー・ジョンは、孤独な年配男性の心を惹きつけるに充分な、ミス・ミュアからの自分に対する率直で裏表のない敬意と、しとやかな心遣いに魅了されていた。彼女は使用人たちにも好かれており、たいていのガヴァネスが、雇い主である家族と使用人たちに挟まれて孤独な存在になってしまうのとは異なり、ジーン・ミュアは家の中心人物であり、ふたり(ジェラルドとルシア)をのぞいて全員と親しくなっていた」。やがて、ネッドだけでなく、ジェラルドもジーンに夢中になり、二人とも愛を告白する。

ところが、なぜか、ジーンはジェラルドでもネッドでもなく、55歳のジョンと結婚しようとするのである。

そして、スリリングな3日間がやってくる。ある理由から、3日の間に、ジョンと結婚式を挙げようとするジーンと、それを阻止しようとするネッドとの闘いが水面下で繰り広げられる。「(ジーンは)心の中でつぶやいた。『3日ですって、たった3日で! こんなに短い時間でやり遂げられる? やらなければ、あたしの才気と遺志で出来るならば。だってこれが最後のチャンスですもの。もし失敗したとしても、昔の生活になんか戻るものですか。すべてを終わらせてやるわ』」。

最後の最後に至って、ジーンがどういう女で、どういう企みを抱いて行動していたのかが、全て明らかになる。その強かさには驚かされるが、彼女の実際の年齢を知って、仰け反ってしまった。

名作『若草物語』よりも『仮面の陰に』にほうが断然面白かったというのが、天の邪鬼の私の正直な感想である。

大串尚代が巻末の「訳者解題」に興味深いことを記している。オルコット自身が、『仮面の陰に』のようなスリラー小説、『若草物語』のような少女小説について、「わたしが生まれつき心を駆り立てられるのは、ぞっとするようなスタイルなの。目も醒めるような空想にふけりながら、原稿にそれを書いて出版したいなぁ、なんて思うのよ」、「子供だましの訓話には飽きあきしていたので、今度の作品は楽しかった」と語っていたというのである。